2006年(平成18年)2月10日号

No.314

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自省抄(52)

池上三重子

 2006年1月2日(旧暦12月3日)月曜日 曇のち晴

 自省抄を書きつつ、さて今日はいかなる時々刻々が展開するかと心のささやきを聴く。只今ラジオ体操の時間、けさの放送は誰方か。
 勤務人員ぎりぎりの日常のところに一人流感、一人事故一カ月の欠勤とあって、一昨日から二日つづきの介護者四人体勢。忙しさただならぬ状況であろうと双方へこころ痛みながら、私自身不満なし、は有難い。
 時代も社会も移る。
 福祉関係に一般の関心が傾いた時代は、世の景気の上向きとなれば逆への傾向、と利用者私たち、いや私は覚悟しておかねば不平不満が顔の表情に言葉づかいが砂漠化しようか。
 いい元日だったなあ。
 お天気はまさに日本晴。人々の出足はいそいそと初詣でに、行楽にと運ばれたか。私の元日も賢治を読み、介護も本田美紀士を得たことで鷹揚だったといえよう。心通いの密と疎は、感情ゆれやすい未熟な私を過敏に反応させるのである。
 二日、今日は仕事始め。
 生い立った家では初荷出し。茂さんや虎さんのリヤカーと車力による搬送姿を思い出す。若い茂さんにも余る力が見られたが、虎さんのやさしい笑顔に私はどこかで痛ましさを覚え、気の毒な気がしてならなかった。
 正月三ガ日、包丁を使わぬようにと、母は大晦日は竈の大小三つの他に「ガラ竈」という竈にも火を燃した。
「ここなくさ」「ななくさ」と、二日になると品数は大晦日や元日より減ったが、「セリ箱」や「もろぶた」に料理は用意された。
 材料は、にんじん、ごぼう、だいこん、かぶ、さといも、れんこん等など。このうち、買ってくるのは蓮根だけで、他は父の作る畑物、そうそう、それに「しび」とよぶ干魚は買ってきた。
 食器は三日間、黒の塗り物。主食の椀は縦長の底が厚かった。
 汁椀にお平椀に小皿椀に、箸も黒かった。箸は父の手作りの栗箸か柳箸かが添えられていた。
 おや十時、オリーブ油塗布の用意をして頂かなくちゃ。

 1月4日(旧暦12月5日)水曜日 曇

 今日は私の誕生日。あるがまま生ずるままの思惟思考にはぐくまれ、呱々の声あげて以来の八十一年、生命なのだ。兄、姉につづく三番目。男の子を望んでいた父にいとも簡単に命名されて三重子? 書きつつホホホのホと呟く心が顔面をゆるめて微笑ませる。
 母上よ父上よ、ありがとうございます。芯の感慨は私のよからぬところ、ふだんの私は天と地と人のお陰をもって生々溌剌、精神瑞々のようです。八十二歳(?)なんですよ。まるで高齢や加齢は他人事の気分、母上もそうでしたね。
 母上よ、あなたは慶びにつけ楽しいにつけ「ととさん、かかさんに見しゅごたる! 話そごたる!」と独りごたれましたね。
天草にまで付き添って来ずにいられなかった母ごころの尊さ……身の顫うような感謝と詫びごころです。
 お茶。当時の私は、ほんの一啜りかふたすすりの量でしたが、「美味しいっ!」と感謝するとき「うまかったかい、そりゃよかった」に、必ずや「ありがとう」の言葉がつづいたものです。私に、私のよろこぶお茶を飲ませたいとお思いだった……ありがとうお母さん。本当にほんとにごめんなさいね、お母さん。
 私が生まれたのは旧暦霜月二十九日、風浪宮ことお風浪(ふろ)さんのご縁日の日。お母さんの生家、大藪の太三郎伯父さんの妻女、義伯母さんがお産介抱に来て下さっていたので、義伯母さんの弟のセーたんがお風浪さん詣での買物、「串の柿」を半連下さったとか。お風浪さん詣りは正月用の串の柿と小みかん購入も大事、おもえば当時は質素な暮らしぶりでしたね。
 串の柿といえば、大晦日の夜は「おてがけさん」作りが私の仕事でした。姉が満州の兄一家のもとへ行った後をついだものですが、とても楽しくて生き生きの弾みようでした。 先ずは三宝に白紙を敷いて白米一升(?)を盛り、中央に橙。橙は昆布の二つ折りの輪を上部にして包み、昆布は切りこみをいれて盛り米に立てる。次いで風浪宮で求めたお詣りみやげの串の柿を串からはずし、数粍の短冊切りにした昆布とするめ、小みかんの皮と共に米の上にばら撒き、中にも埋めました。
 埋めるのは私だけの匿しごと。隠匿とは何と心をくすぐり、愉快にさそうものでしょうか。掌を合わせてお正月さんから拝受するのは両親と私の三人しかいないのに、まあまあ私の貪欲な食い意地は、こんなところにも現れていたのですね。
 おてがけさんは、年始のお客のつまみ物としてお前に出していた名残り、と久留米藩史で知ったのですが、庶民層に移ってきた藩士の習慣からのようです。
 久留米藩は米どころとあって富裕な財政ながら、倹約令が幕府の命か自発的にか出たそうです。表に出せなければ羽織りの肩衿、着物の裏や裾回しにと、令の出た当初こそ守られたものの、いつしか元に戻ったようです。「柳河仏は拝まれん」とは、口先だけ巧者でも中身は空っぽ、騙されまいぞ、と石高の豊饒さをほこりにした久留米藩百姓衆のささやかな気張りだったのでしょうか。
 介護士本田美紀さんに、太宰府天満宮で求めたという匂い袋を頂戴しました。隆昭夫妻と周坊がシンビジュウムのオレンジ色の鉢を持ってきてくれました。大川サダ子さんと森田良子さんが、良ちゃん拵えの青孟宗竹を花器にカサブランカやカーネーシ ョン、チューリップ、濃緑の松、千両万両などのお盛花とケーキを。武下洋子ちゃんは、おばあちゃんおことずけという甘納豆とお茶受け昆布。ありがたいなあ。いっぱいいっぱい、あたたかい人の心情を身に生きている私、の実感拝受。私の生の花や根は、近く遠くの人々のお陰に扶けられ支えられているのです。忝ない人生よ!
 六時前十分。松尾ウラ媼の夕食献立放送が始まりました。
 お母さん、今夜も夢見にお待ちしますね。佳き日、よき一日の拝受にひれ伏しつつ。



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