2005年(平成17年)12月10日号

No.308

銀座一丁目新聞

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追悼録(223)

「何処まで続く泥濘ぞ・・・」

  大連2中の忘年会(11月27日・新橋亭)で今なお横浜で子供たちに剣道を教えている大友親君が「森繁さんは『討匪行』が軍歌のなかで一番好きらしいよ」と『週刊新潮』12月1日号を見せてくれた。「大遺言」(語り・森繁久弥・文・久世光彦)によると「・・・苛酷な戦争のなかにも、美しい詩があるんですね。『敵にはあれど遺骸(なきがら)に/花を手向けて懇ろに 興安嶺よいざさらば』(14番)ー恥ずかしいけれど、ここで私はかならず泣きます・・・』と森繁さん。作詞は関東軍参謀部の八木沼丈夫少佐、作曲はオペラ歌手の藤原義江。昭和8年藤原義江は自らレコードに吹き込み大ヒットした。これには裏話がある。藤原さんが昭和7年秋、満州へ皇軍の慰問に出かけた折、自ら将兵とともに泥濘の中を歩み敵襲の危険にさらされた。関東軍参謀部からもらった歌詞は15章の長いものであった。藤原さんもいう。『嘶く声も絶はてて/倒れし馬のたてがみを/かたみと今は別れきぬ(2番)』と森繁さんと同じく14番に感じて曲をつけたという(坂本圭太郎著「物語軍歌史」)。選び抜かれた言葉が七五調に綴られると人の気持ちを打つ。藤原さんは昭和51年、77歳でこの世を去った。
 軍歌は陸士の予科、本科を通じて良く歌った。軍歌はともかく、もともと音痴で歌うのが嫌いである。カラオケでは「歌舞音曲はまかりならぬ」が父の遺言なのでと避けるようにしている。この禁を一度だけ破った。昭和60年、毎日西部会館の社長時代、会館内のテナントを対象にした「ノド自慢大会」を開いた。そのときなんと優勝したのが毎朝、会館の清掃をしているおばさんたちであった。その打ち上げのお祝いの会に招待され、そこで一曲所望された。おばさんたちの日頃の苦労を知っているので無下に断れず、満州国小学校唱歌「私たち」と大連2中の応援歌「凱旋」と軍歌「山紫に水清き」の三曲をメドレーで歌ってサービスした。私が生きた戦後の歌は来年歌いますといってそのまま東京に戻ってしまった。歌に絡まる話は思い出深い。

(柳 路夫)

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