11月8日(旧暦10月7日)火曜日 快晴
あたたかい小春ぽかぽかの陽気である。
ねむり目のとろむ思いよ。
八木重吉の琴の詩編が日向に置かれ、いつの間にか六段の音色が奏でられて、とろむ思いは冴えに代わる……今この時!
一昨日、六日は母の祥月命日であった。十八年前の早暁三時四十八分命終……去年十七回忌のご仏前の儀をすませて貰ったなあ!
菩提寺円照寺の庫裡でお通夜。そのまま寺に泊めて頂き、七日に葬儀。身内十人程あつまって貰えばいいと思っていた。隆昭一家は奈良の転勤先から、博美一家は東京から。本堂には思いがけず江上悠紀子夫人のお顔があり驚く。後で清水シズエさんの好意とわかった。そうそう、後でどうして夫人に弔辞をお願いしなかったかと、悔やんだものだ。
月一度、夫人は来室された。柳川城内にご実家がある由。その美貌を夫となる方の伯父上に見初められての縁、と天草の寮で隣室の清水シズエさんから聞いたことがある。
清水夫妻にはずい分お世話になった。シズエさんは歌人、ご主人は海軍の志願兵から少尉という来歴の持ち主。好人物で働き者のご主人は畑に菜園を、ベランダに花を作っておられるとうかがっていた……
葬儀の喪主は母の大事な長男隆介の忘れ形見、孫の隆昭。司会は松永勝巳先生にお願いし、正信偈と大莞小学校の校歌を入れて頂く以外、いっさい予定なし話し合いなしのぶっつけ本番。先日亡くなった教え子の広松和明さんが、両開三人組にたのんで私たちの食事を整えてくれた。
私は、クリーニングに出しておいた白いネグリジェに天草から看病つづきに付いてきてくれた猪口慧美子さんが自分のを外して掛けてくれた真珠のネックレス。それに黒い母のシルクの肩掛けを羽織っていたのではなかったか。
母を荼毘に付す轟々とすさまじい音は噴き出す煙を生きもののように立ち昇らせて円柱となり、円柱の先端部からは離合集散する煙の饗宴となった。和明さん運転の車中から、私は一期の母を凝視していた。
悲嘆はなかった。
まわりに人がいた事もあろうが、極度の緊張が心身を縛っていたろうか。
母上よ!
ありがとう!
本当にありがたい母子のご縁頂きでした。しかし母上には常臥の相を見せるだけでも不孝なのに、看取りまでも、しかも婚家での看取りまでもおさせした……ごめんなさい、お母さん……
轟々と響りわたりつつ荼毘の煙の
忽ちに為す墓標煙柱
小春日の天が下なりわれは生き
母は異界の杳き幻影
ひとすじの煙りと昇る野辺の母を
教え子和明共に瞻(も)りにしを
そしてこの日、八日に納骨。私は車椅子のまま車上荷台に。翌九日朝、読経を拝聴して帰草。円照寺の僧の読経もお説教も僧侶らしからぬ凡庸さ(?)に、隆昭や和明さんには不評。私は途中で僧になったと聞いていたので素人上りらしさに好感した。私が車中の人となった最後まで、うろうろとお世話くださったのが温かで、言葉交わす事もなかったのに人間の思いやり、心遣いが深ぶかと残った。
生者必滅 会者定離とは
仏の教えと知られたり
頭脳優秀、聡明な母だった。学問こそなかったが、生家大藪家系の頭脳と善意、仁慈の情を私は母に見てきた。明治十六年生まれの母は、小学校一年と二年生一学期が学業歴。それを生涯の悔いとした。
祖父が行けという学校より、生まれた妹の子守をしながら友達と遊ぶ方を選んだのだった。悔いは知文字、文字文章への憧れとなった。
七十五歳からは私の看病が主となった。その時点で「茣蓙打ち」の仕事から離れねばならなくなり、俄に識字への関心が目覚めたのだ。
ひそかなるわが慶びは母の血を
その優しさを身に気付くとき
母の血を享けにしわれの命なり
忝なしと頂き生きな
遥かなる旅路よ。映画かTVドラマの題名なら虹七色の宙空の彩りだが、私の実人生は母を犠牲にする災禍であった。連れ合いは私の意志によって意志通りに解放の時を得て第二の人生へ出発して貰ったのだが、母上よ! あなたは……とうとう私の犠牲になってしまわれた。「悔いは愚、愚の骨頂」と認めても、母の人生を道連れにした事は罪障感となって払拭できない。
カーテンの隅から碧澄む高い高い空の色はたそがれ色に薄れ、あかねからむらさきへのぼかしの彩が日没間近を告げています。
母上よ!
逝くものは斯くの如く夕刻となりました。五時半というのに薄暗い室内ですよ。
もうすぐ真っ暗になりましょうか。
暗夜行路の夜はものおもいを与え、喜びも哀しみも与えましょうか。思考する事を恕されてある身をおもえば、顫えるような感動もまた賜るのです。
円照寺の庭の石蕗黄に照るや
母十七回忌すみわれは現身
配膳の気配ゆえ、ペンをおきますね。
では、夢見にお待ち申しつつ……
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