2005年(平成17年)9月10日号

No.299

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追悼録(214)

「山下奉文大将刑死の意味」

  友人の広瀬秀雄君からヘレン・ミアーズ著・伊藤延司訳「アメリカの鏡・日本」(角川学芸出版)が送られてきた。「勉強しろよ」という友人の激励と受け取り読んだ。アメリカ人でありながらアメリカをズケズケ批判している。原著がアメリカで出版された昭和23年、日本でも出版の話が出たが、連合国總司令部が出版を許可しなかったというのもうなずける。訳者が後書きでいうように「近代日本は西洋列強がつくりだした鏡であり、そこに映っているのは西洋自身の姿なのだ。つまり、近代日本の犯罪は、それを裁こうとしている連合国の犯罪である」という。
 では先ず連合国の犯罪の一つである比島方面(第14軍)軍最高司令官(昭和19年9月26日)、山下奉文大将(陸士18期)の軍事裁判を見てみよう。他の文献も参考にする。山下大将は昭和20年9月3日、ルソン島の山をくだってアメリカ軍に降伏。バギオで停戦協定調印式(式には日本側の捕虜となっていた比島方面米軍總指揮官、ウェンライト中将、シンガポールで降伏したイギリスのパーシバル中将も列席)を終えると、マニラのニューピリピッド刑務所に護送されると同時に戦争犯罪人の容疑者に指定された。9月25日起訴、10月29日裁判開始、当時ニューヨークタイムズは社説で「山下司令官のような階級にある軍人が部下の犯した残虐行為の責任を問われた例はいまだかってない」と書いた。12月7日絞首刑の判決、昭和21年2月23日処刑というスピード裁判であった。ここにはマッカーサー元帥の怨念が感じられる。昭和17年3月11日、元帥は家族と幕僚18名とともに魚雷艇4隻に分乗、「I SHALL RETURN」とコレヒドールからオーストラリアへ脱出した。元帥にとって人生最大の屈辱であった。なり手のない山下大将の弁護人に指名されたフランク・リール大尉は後に山下裁判を書くが、法律的には山下が無罪であると信ずるとともに、山下大将の人間性のとりこになってしまう。記録によると、刑執行の前夜は、日本軍捕虜全員を獄房の中央に立たせて機関銃を持ってGIたちが警戒した。処刑に使われた13階段は日本軍捕虜が急遽、制作したもので、山下大将の処刑後、捕虜の一人がひそかに階段の木の一部を削り取って持ち帰り、帰国後遺族に形見として渡したと聞く。
 フランク・リール大尉の記録を読んだある読者の感想がある。「合衆国政府は明らかに一つしか罪のない男ーすなわち敗北者側にあったという以外に罪のない男を裁判し断罪した」(楳本捨三著「陸海名将100選」山下奉文より)。
「アメリカの鏡・日本」は書く。「山下将軍を裁いたのは軍事法廷である。しかし、有罪の認定と不名誉な条件での死刑判決はマッカーサー将軍、米最高裁、トルーマン大統領の審理を経て確定した。つまり山下裁判はアメリカの司法基準に基づいて審理されたものとして記録されたのだ」これを多くの人は歴史とする。このような馬鹿げた事はない。この本をさらに読んで折にふれて歴史を考えたい。

(柳 路夫)

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