2005年(平成17年)9月10日号

No.299

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(16)

井上靖記念館

−宮崎 徹−

  平成二年は明治二十三年に旭川が開村してから百周年で、記念行事の一つに、旭川で生まれた作家井上靖さんの記念講演が行われた。
 井上さんの父の隼雄は、金沢医専を卒業後、陸軍軍医として旭川に勤務された。
 現存する旧第七師団の師団史(他の日本の陸軍各師団史は、終戦時全部焼却されて、秘匿されて残った唯一の貴重な資料とされる)には、明治四十一年隼雄氏が、韓国の治安のために派遣される第二十七連隊の一員として名が記されている。五月八日に派遣が決まり、十一日の出発である。日露戦争の後、日本は韓国との間に保護条約を結び、韓国の外交権を奪った。更に韓国軍隊の解散が行われたので、兵士を中心とした義勇軍が解散を拒否して各地で義兵闘争を行い、明治四十一年はそのピークだったのである。
 靖さんの誕生は、その前年の五月六日である。生後満一年になる靖さんを抱いて、母堂やゑさんは旭川駅で出兵する隼雄さんを見送ったのだらう。若い日の最も淋しい思い出だったと、後年靖さんに語られている。師団史のお蔭で、隼雄さんの部隊は小樽から出港し、十七日に仁川に上陸したことが判る。慌しい出発までの 数日、父母は子供の将来のことも話し、留守家庭を旭川に置かず、実家の伊豆の湯ヶ島に移そうと決めて、郷里に連絡した。当主の祖父文次さんが遠路来旭し、家財の発送から、官舎の明け渡し、近所の人達への別れの挨拶を交わして、五月半ばに旭川を発った。就航したばかりの青函連絡船に乗れたが、それでも旭川から四日かかる長い旅路だった。昭和四十七年から毎日新聞に連載された「幼き日のこと」では、この長い旅の間、井上さんは、やゑさんより祖父の腕の中に居る時間が長く、後年いかにこの旅が難澁を極めたかを、繰り返し祖父から話されたと云う。夫の前途の安否を気遣う母上と、娘と孫の世話に苦労する祖父との間のことについて、満一歳での記憶を持つわけではないが、やゑさんと祖父の文次さんから聞かされたこの旭川 からの旅の話は、心象風景として、その後の靖さんの胸に刻まれたのだった。
 平成二年に旭川を訪れるにあたって靖さんは明治四十一年の逆のコースで、旭川に行きたいと希望して居られたようだと、私は折衝役の市の職員から聞いたことがある。既に昭和六十三年青函連絡船は廃止となっていた。その頃先生は癌の手術を受けられた後のお身体で八十を超えておられた。結局空路旭川に来られた。私も主催団体の一人として、休憩のお時間中、数名でお話を聞く機会に恵まれた。
 長い間、一読者として私は先生のファンだった。「猟銃」や「闘牛」からの読者であるが、若い日は、短編の中に描かれる人物に感情移入をしては、青春の悲哀を知り、初期の歴史小説では、時代の流れに逆らい亡びて行く人達の生き方に共鳴した。西域の物語では「楼蘭」や「敦煌」の主人公の歩むシルクロードに思いを馳せた。知人の仲代達矢さんは仕事の関係で時々旭川に来たが、或る酒の席で「敦煌」を映画化したいと私に語った。当時「アラビアのローレンス」が封切られて注目を浴びていた。小林正樹監督も仲代氏 もその実現を夢見、この映画化には体力的に今でなければ出来ないからと真剣に話していた。シルクロードのイメージも異域で死ぬ人々のリリシズムも、現地に赴けなかった高度成長期の青年達は、井上さんの描いた作品で教えられていたのだった。
 旭川でお目にかかった時の先生は、「本覚坊遺文」「孔子」を書かれた後だったが、その文学者としての風貌は若い時期からのイメージとつながったものだった。
記念の講演は、生まれ故郷としての旭川のイメージから始まった。その内容は作品の「幼き日のこと」の最初の章にもある。母が靖さんを産んだ五月の終わり頃、同じ地区の官舎に住んでいる上司の奥さんが来てくれて、産後の母上を心配して親切に付き添って呉れて買い物をした。雪溶けの ぬかるみの上を転ばぬ様に気配りをして近くの市場につれて行くのである。その時靖さんは官舎で手伝いの老婆に抱かれて居たのだが、年長の女性が母親に育児に必要なことを親切に教えて呉れた風景は、母上の口から何回も聞かされて井上さんの胸には一枚の絵となっていた。このことを母親と住んで居た旭川の市民の前であらためて話したのである。話したその絵の中には若い二十二歳の母上が居た。
 死者の思い出を語ると、その時、故人は生き返るいう言葉が有る。母上は八十七歳でなくなられた。伊豆の代々続いた病院の跡取り娘として生まれたお母さんは靖が医師とならず作家とな ったことに、時には不満もあって、文豪を辟易させていたともいわれている。その時すでに八十三歳となられていた井上さんにとって、この旭川にこられて、母上のことが特に懐かしく偲ばれたのだろう。親切な隣人に付き添われて ぬかるみを歩く母上の思い出を繰り返し語られたのであった。
 平成三年一月。井上先生は国立がんセンターで死去された。
 「私は十七歳の、この町で生まれ、
  今、百歳の、この町を歩く。
  ・・・・  ・・・・・・・」
 来旭の際、先生の創られた詩の冒頭の一節である。その詩は「ナナカマドの赤い実のランプ」で終わる。
 旭川の井上靖記念館は、平成五年三月、先生を記念して建てられた。その隣に小公園を挟んで、昔の陸軍偕行社・現在の 旭川彫刻美術館が並んでいて、旭川でも特に心の魅かれるところである。

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