2005年(平成17年)9月10日号

No.299

銀座一丁目新聞

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自省抄(40)

池上三重子

   8月11日(旧暦7月7日)木曜日 快晴のち夕立

 今日は旧暦の七夕。陰暦七夕は天候がおちつき、空には天の川、年に一度の逢瀬の「いんかい」さんと「たなばた」さん。七夕様のお供えは、一升徳利に挿した笹竹と酸漿。七夕紙を短冊型に切り、七夕菓子の大判小判に鎖つなぎなど、紙撚りを撚って吊す。生ものは、北の畑でもいだ唐黍、茄子、胡瓜、瓜、菓子瓜など……。
 七夕書きは筆、墨は硯を幾往復、水が墨汁になったところで毛筆を走らせる。水は稲の葉に宿る露の玉。朝早くに起き、私は小さな摺鉢を抱えて竹の柄杓を持つ姉にしたがう。稲の秀の上をさーっと柄杓で薙げば朝露少々……小さな青虫あり蝗ありを捨てて、小さな摺鉢に溜めていく。
 家には水芋畑があり里芋もあって、露はそこで簡単に採れるはずなのに習慣がなかったのは、「朝露踏めば脚気の薬」とされたことに因むいわれによるものか。ゴム草履を思い出す。
 姉と二人の七夕書きは、天の川・二つ星。
 母の生家から早朝のご案内が、重箱に詰めた「米ん粉饅頭」とともにやってくる。口上は「今日はよど(夜渡)んけん、早よ来てくれんの(今日はよど祭りですから、早くおいで下さい)」
 重箱の蓋をあけるや、ぷーんと真菰のにおいが爽やかに鼻をくすぐり、白い光沢もつ饅頭が真菰の仕切りのなかに整然とならぶ。
五月端午の節句の粽には葦の葉と真菰と藺草がつかわれ、七夕饅頭は真菰。村のいたるところ堀(堀割・運河)が縦横無尽の水郷、ふるさとの自然が彷彿とする。母の生家の村大薮の田圃には、三ノ坪、五ノ坪の名称が大化の改新のなごりを留め、母の話の折節に知る郷土史でもあった。
 七夕祭はお薬師夜渡を兼ねるようになったようで、小さなお堂は円照寺の開扉の前。押すな押すなの善男善女の人波のなかを、子供たちは縫いながらはしゃぎ廻る。私も母と一緒にご案内された朝のお使いの言葉に甘え、客となったものだ。
 母の生家は県道をはさんで南側は野菜畑と花畑、母屋は広い干し場を前に大きな藁屋根で右手に土蔵、左手に作業小屋をしたがえた見事な大百姓の家構え。大風のときなど近所の村びとの集まり場になった。夏は屋内に一歩足を踏み入れると、ひんやりした冷気に癒されたものである。
 蔵は干し場の東に踏み石、石のかたわらに岩牡丹のピンクや白の可憐な花が、道ぎわのちょっと高みの庭の入り口には白粉花の臙脂と黄が。臙脂の色も黄色も匂いを放つ夕べの花…… 
 母キクがその母ハツから聴かされたという問わず語りを問わず語りしてくれたのは、私の病臥の日々、母の手厚い看護を受けているころだった。
 田圃三反もらって分家した高祖父弥作は早起き遅寝の「がまだしにんげん」、買い足し買い足しで三町歩近くの田地持ちに。隣村の分限者から嫁いできた高祖母マスも負けず劣らずの働き者、子運のない夫婦は高祖母の生家の姪を養女にし、隣地区から婿を迎えた。婿殿は毎日の床屋通い、髷結いの贅沢さは頑健でなかった故か。床屋が「一銭どん」とよばれていた時代、「毎日一銭がかりのしゃれもん(おしゃれ)じゃったげな」とは母の言である。
 祖父善三を祖母ハツに迎えた弥作は、新婿をつれて「お伊勢まいり」に同道。家族には荷物送りとして出たのだが、初めからの胸算用に路銀はふところにあったそうな。
 往復二百里といえば八百キロをテクテクてくる徒歩の旅。あるけあるけの旅仕度に駕籠舁き二人が寄ってくるのに歩幅も変えず「そこまづ(ほんのすぐそこまで)、そこまづ」と手を横振りに断りつづけた。
「わしどみゃ、そこまづ苗字に始末の助ばいない(ね)」
 弥作爺にとっては可愛い孫婿殿であったろうか。
 母のこんな昔語りを兄や姉は聞いていたろうか。病臥の私は話の玉手筥に豊かさありがたさ満喫の歳月であったけれど、まだ若かった母に、そんな昔話をする余裕はなかったかもしれない。
 姉といえば、喧嘩もしたなあ。私の方がどの場合もよくなかった。姉が我慢してくれたのだ。
 面倒見のいい姉だった。不精者の女学生私がスカートの寝押しを面倒がるのを、丁寧に畳んでくれた。襞ののびたスカートをはこうとすれば、霧吹きでしめらせてアイロンをかけ、襞をととのえてくれる。靴も靴墨塗ってピカピカに仕上げる姉。「妹が姉のをそうしてやるのが当たり前なのに、これは逆」、と秩序を重んずる母は嫌った。それでも、母に隠れるように私の面倒見る綺麗好き清潔好きは、生得のものであったろうか。
 頼まれて買ってきたばかりの化粧水をスカートの裾に振り払って縁側に落としたとき、割れた口惜しみを言わず咎めずのあの自然体は、姉としての「あるべき様」と考えていたのだろうか。風樹の嘆は父母、殊に母への泣き節、嘆き節だが、姉にもひたすらの感謝と詫びやまぬ心情よ。掘り返し掘り返しせねば薄れるばかりの記憶と、本能がなさせる回想か自助自励の作務か。
 父も逝った。七十七。母も逝った、百五。兄も姉も三十六、六十三で。八十一媼私のこころは温故また温故の情、色濃く、知新のおもいも併存しつつ、の現状もよう。
 母上よ!
 あなたは母ごころを尽くして下さった。あなたのお写真は私の傍らの小さな額の中。百歳祝賀のさいの背筋うつくしい薬玉割りのあの姿。掛けている車椅子をくるりと回され、寮のみなさんの真正面向きになった瞬間「恥ずかっさあ」と洩らした言葉がマイクを通して流れ、付添いの海さんの「おばあちゃんの恥ずかしがりょんなさる」がつづいて……
 大薮村の七夕よど。夏祭は昔ながらにお客接待、お参りと盛んであろうか。人の波の参拝客と遊び客に、出店のガス灯のにおいの雑踏をくぐりくぐりの駆けめぐりは子供ら、その中の一人に私が、幼なじみの朝ちゃんが……
 父母恋し。兄恋し。姉恋し。私の自省は年古るごとに濃く密になるばかり。
 母上よ! 今夜も夢見にお待ちいたします。



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