安全地帯(120)
−信濃 太郎−
ある同期生沈黙を破る
同期生の前沢功君(工兵・名古屋幼年)から大阪幼年校出身のA同期生(航空通信)が書いた「沈黙を破る」という所感を頂いた。A君の原稿を要約する。私の考えも述べたい。A君が大阪幼年学校(当時幼年学校は東京、仙台、名古屋、広島、熊本の6校あった)入校1ヶ月目、隣の斑のトイレに指導生徒(1年生のために訓育斑に1名の3年生を配して指導生徒としていた)の悪口が落書きされていた。A君が犯人にされた。トイレに入るのを見たという者がいたからである。13名の上級生に囲まれ3時間にわたり自白を強要された。幸いアリバイが証明されて濡れ衣が晴れた。1ヶ月余り後、犯人があがり罪が宣せられたが、A君は犯人を見て無実だっと思った。居並ぶ上官、教官すべて馬鹿に見えた。戦後判かったことだが、彼の判断が正しかった。A君の幼年校の生活は失望、落胆、不信感で始まった。私が予科に入校してまもなく大阪幼年出身の取締生徒(区隊を指揮し内務の取締りに任ずる)に娑婆の言葉を使ったというので顔を殴られ、左の耳の鼓膜が破れた。区隊長には剣道の際、竹刀で顔をやられたとごまかしたところ、すぐばれてしまい「貴様は正直ではない。将校生徒に相応しくない」と説教を食らった。釈然としなかった。殴った同期生は重営倉になった。今なお同期生にはすまないと思っている。
A君が2年生のとき、「天皇機関説」について質問するものがいた。上官は次のように答えた。「わが国は天皇陛下がおられて、始めて日本の国があり、お前達はそのおかげで安心して暮らしてゆける。然るに学者の中には天皇は国を統治するための一つの機関だなど全く馬鹿げた説をなす奴がいる。こんな話を聞いてはイカン」と。A君は生徒集会所の2階にある図書室で調べた。大正時代から昭和初期までこの学説は誰も反論を唱えなかった。すでに学者間では定説になっていた。昭和10年ごろ(岡田啓介内閣)陸海軍部が議会で問題とし「軍は天皇を現人神として精神教育の根本としているのにこんな説はけしからん」とし、美濃部達吉博士を学会より追放し、その著書を発禁処分とした。A君同様私も「天皇機関説」に賛成する。
「昭和天皇独白録」―寺崎英成御用掛日記(文芸春秋)を見ると「私は国家を人体に譬え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官と言う文字を用ふればわが国体との関係は少しも差し支えないではないかと本庄(繁る〕武官長(陸士9期)に話して真崎(甚三郎・教育総監・陸士9期)に伝えさした事がある。真崎はそれでわかったといったそうである。A君が「機関説」を勉強していたころ、大連2中に在学していた私は金子雪斎が創立した振東学社に寄宿していた。舎監室にあった「金子雪斎論文集」をひもとき、私有財産制限を説く国家社会主義に興味を持った。陸士に入学後、振東学社の総裁であった中野正剛が自決し、葬儀が行われた(総和18年10月31日)際、たまたま日曜外出していて訪問先の保証人宅でその死を知った。そのまま保証人と葬儀に参列した。帰校後、区隊長に事後報告した。区隊長に国家社会主義に付いて突っこまれ立ち往生した記憶がある。
A君は書く。「忠君愛国と忠君が先行していたが、やがて愛国を飲み込み、忠君だけになってしまった感がある。『御国のために』は影を潜め、殆ど『天皇陛下のために』であり、『天皇陛下バンザイ』であった」
私には忠君も愛国も同意義であった。とりわけ本科の座間では「いかに死ぬか」を考えた。本科にきた昭和19年11月から翌年の2月半ばに至る約百日間の訓練は苦しいものであった。幼年校卒業前後(昭和18年3月ごろ)A君はそう考えたという。私の方が単細胞であったということであろう。私は今なお天皇を敬愛する。昭和天皇在60年で毎日映画社が天皇のビデオを製作した時、毎日新聞の西部本社代表であったので100個購入して売りさばいた。私の家は元禄時代まで神官であり、神道を奉ずる祖先からの遺伝子がそうさせるのかもしれない。幼年校といえば名古屋幼年校では思想家、大杉栄、詩人、三好達治、問題児にして快男児、甘粕正彦を生んでいる。多少毛色が変わった候補生がいたとしてももたいしたことはない。 |