2005年(平成17年)9月10日号

No.299

銀座一丁目新聞

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花ある風景(213)

並木 徹

詩人 黄瀛のこと
 

  1.  本紙に連載中の池上三重子さんが「自省抄(38)(39)に詩人の黄瀛さん(こうえい)の事に触れている。実は銀座のわが会社「フウズラボ」で働いている傅亮君、上田敦子さん、浅野弘嗣君は黄さんと会った事があり、特に傅君の母親、楊霞斐さんは四川外語学院の先生で、黄先生とは同僚であった。母親によく学校に連れてゆかれ黄先生に可愛がられたという。2000年9月3日、傅君が重慶で結婚式を挙げたとき、黄先生も来賓として出席された。日本からも上田さんと浅野君が出席、披露宴では黄先生の隣の席が浅野君であった。黄先生は「傅君は子供の時から頭がよかった」と激賞された。ユーモラスな方だったようである。浅野君がフィンガーボウルに指を入れる仕草をすると、「君それは飲むものだよ」といわれた。浅野君が今度は飲もうとすると「いや違う、違う」とおかしさをこらえて止められたという。93歳の黄先生は矍鑠としてお元気であったので、浅野君が「長寿の秘訣はなんですか」と質問すると「僕の健康法はタバコを吸うことだよ」とうまそうにタバコを吸われた。上田さんには「井伏鱒二を良く知っているよ」と懐かしそうな顔をされた。黄さんは阿佐ヶ谷に住んだ事があり、近くにいた井伏さんの家へよく訪れていた。二人が黄さんから頂いた名刺に「中国、日本文学研究会顧問、中国和歌・俳句研究会顧問。四川省翻訳工作者協会顧問、四川外語学院教授」とあった。傅君の父親は工人日報の重慶支局長(当時)で結婚式に市長をはじめ要人たちが来賓として出席、盛大な披露宴であった。(2000年9月10日号「花ある風景」参照)
     黄先生の経歴を見ると1927年陸軍士官学校に入校され1929年に卒業されている。陸軍士官学校に留学制度が出来たのは明治33年(1900年)で、その年の12月、清国陸軍学生1期生40名が入校している。2年間で将校を養成した。黄先生の入校は昭和2年(1927年)10月、21才の時である。留学生20期生として中華民国学生15人が入校している。卒業は昭和4年7月、20期生238名卒業と記録にある(途中で増員したようである)。陸士に入学する前の大正14年、新潮社の詩の雑誌「日本詩人」(2月号)で黄さんの「朝の展望」が一席に選ばれて、一躍詩壇から注目される存在となっていた。陸士在学中も詩作に励んでおり「士官学校の夜」という詩が残されている。北海道へ出かけた士官学校の卒業旅行の帰り、黄さん自身が早くからその詩才を認めていた花巻の宮沢賢治を訪ねている。その時は詩の話より宗教の話が多かったという(佐藤竜一著「黄瀛」−その詩と数奇な生涯より)。
     留学生の20期は陸士の期で言えば41期に相当する。私は59期生だから黄さんは私より18期も先輩になる。当時、傅君から来日以来身元保証人だから「是非結婚式に出てください」と誘われたのに出席しなかったのは残念である。今年の7月30日重慶の病院で死去された。享年98歳であった。返す返すも絶好の機会を逸したもので痛恨の極みである。

 

 

【黄瀛さん(於傅氏の結婚式)】

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