毎日新聞から出版された「昭和史全記録(1916―1989)」の昭和20年9月の項に「ミズーリ艦上で降伏調印をするために到着した日本代表・重光葵」(9月2日)の写真がある。タラップの上りきったところにシルクハット・モーニングの重光全権委員重光外相の姿が目につく。恐らくその後には同じく全権委員の梅津美治郎参謀総長(陸軍大将・陸士15期)がタラップの下にいたであろう。随員は9名。陸軍から宮崎周一中将(参謀本部第一部長・陸士28期)長井八津次少将(東部軍付・陸士33期)杉田一次大佐(参謀本部第二部・陸士37期)海軍から冨岡定俊少将(軍令部第一部長・海兵45期)横山一郎(海軍省首席副官・海兵47期)柴勝男大佐(海兵50期)外務省から岡崎勝男さん(終戦連絡中央事務局長官)、加瀬俊一さん(外務省情報局第三部長)、大田三郎さんであった。
「木戸日記」の8月27日にこんな記述がある。「5時半、武官長來室、調印代表に参謀総長のみと云うことにつき参謀本部内に異論云々の話を聞く。緒方[竹虎]書記官長に連絡す」屈辱的な降伏使節になりたがる人はまずいまい。梅津大将にしても降伏使節に選ばれた時『腹を切ったほうがいい』と初めは拒否された。参謀総長になるように命じられた際(昭和19年7月18日)熊本幼年学校恩賜、陸大首席の梅津大将は息子の美一に向って「今度もまた後始末だよ」と漏らしたという。『また…』と言うのは訳がある。2・26事件の際は陸軍次官としてその後始末に手腕を発揮した。ノモンハン事変の際にはその収拾のため関東軍司令官を命ぜられ(昭和14年9月)、関東軍の建て直しに当たった。息子に漏らした後始末とは「戦争終結」であって「降伏使節」ではなかったにちがいない。それが全日本軍の後始末を梅津さんがまかされたのである。運命と言うほかない。時に梅津さん63歳であった。木戸日記を見る限りはじめ全権は梅津大将だけであったようである。参謀本部の意見により政府代表重光外相、統帥部代表梅津大将に落ち着いたように見られる。重光全権にしても近衛文麿をはじめ候補にあげられた重臣が次々に断ったためやむを得ず引き受けたものであった。駐ソ大使.駐英大使を歴任.日独伊三国同盟の危機を警告、三度外相(東条、小磯、東久邇各内閣)を勤めた重光さんである。覚悟を決められたのであろう。時に58歳であった。
全権一行をメリケン波止場から横須賀沖18マイル処に停泊している戦艦ミズーリ号まで運んだのは日本の漁船ではなく、アメリカの駆逐艦ランスダウン号であった。艦長は日本で駐在海軍武官をしていたスミス・ハットン大佐。随員の加瀬俊一さんとは同じハ
ーバード大学の出身で家族同士の付きあいであった。艦長の計らいで駆逐艦から戦艦へのランチの移乗には屈強な水兵が隻脚の重光さんを抱きかかえて手助けしてくれた。降伏調印式の式場となった戦艦ミズリー号(4万5千トン)は第三艦隊司令長官ウィリアム・F・ハルゼー提督の旗艦として九州、沖縄周辺の機動戦に参加。3回も日本の特攻機の攻撃を受け、右舷に損傷を受けたが沈まなかった。ブル(雄牛)と言う綽名を持つハルゼー大将は「日本全権の顔のど真ん中をドロ靴で蹴飛ばしてやりたい衝動をかろうじて抑えていた」らしい。加瀬さんが後日知ったことだと、その回想録に記している。
重光さん、梅津さんともに東京裁判の被告になった。ソ連検事の人物評に寄れば、梅津さんは「対ソ侵略計画の直接指導者」。重光さんは「日本の侵略的外交政策の先導者」であった。昭和23年11月13日に下された判決は重光外相・禁固7年。その後、政界に進み、改進党総裁、民主党副総裁。鳩山内閣では副総理兼外相となった。昭和37年1月死去、享年69歳。梅津大将。欠席のまま終身刑、昭和24年1月病死した。享年67歳であった。
(柳 路夫) |