2005年(平成17年)6月20日号

No.291

銀座一丁目新聞

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(8)

「(泰西農法)ラベンダーファーム」

−宮崎 徹−


                                   Photo by HITOSHI TOMITA

 新しいフロンティア北海道の開発のために明治政府は力を入れた。開拓顧問として招いたのは米国農政局長というポストに居た大物のケプロンだった。江戸時代の鷹狩りの場所だった駒場野に農学校を設立。その後明治九年創立の札幌農学校と共に、「泰西(たいせい)農法」の輸入と発展に大きな期待を寄せたのである。
 現在の澁谷駅の周辺には「開拓使用地」として試験農場が四ヶ所あり、その中二ヶ所は西洋果樹の栽培が行われた。明治五年ケプロンの建策でアメリカから七十五種類のリンゴの苗木を輸入、東京の用地で栽培した。翌年北海道の七飯村の開拓使用地移植。六年から道内の農家に無償又は低価格で売却された。その他に梨、桃等も配布されたが、成功したのはリンゴである。明治三十年代北海道リンゴの 生産高は青森・秋田・岩手・山形の東北四県の合計を上回ったという。
 此の様な殖産興業は開拓が進むにつれて、全道に拡がった。たとえば富良野川流域の村落で見ると明治三十年に上富良野村が開村し、三十六年に下富良野村(現在の富良野市その他)が分村・大正六年に中富良野村が上富良野村から分村という形で富良野の行政地名が出来た。
 大正初期の地図が手元にあるが、今の富良野市の下富良野村に北大の第八農場があった。国レベルと同様のことを北海道でも行って居たのである。その頃此の村に、本間牧場という小作農家を百四十戸も持つ大地主が居た。或る夏、第八農場から牧場に見慣れない果実(トマト)が持ち込まれた。食べられると言っても大勢の使用人達は気味悪がって誰一人食べようとしない。本間家のお嬢さんだけが義理と同情心とで口にしたが、その青臭さと不味さとで大ショックを受けたと、語り継がれている。泰西の果物、野菜の普及には消費者も含めて皆苦労したのだった。
 富田さんのラベンダーファーム造りの苦心は「わたしのラベンダー物語」(新潮文庫)で出版されて居り、この北海道物語の前回の文でも触れた。ここでは私達が教えられる点について語りたい。ラベンダーファームは明治開拓期の頃のような公的援助によって栽培したものではなく、曾田香料(株)という民間資本との契約によって始まった。しかし、貿易の自由化で香料が安く入ってくるようになったので、作っていた人は皆が涙を飲んで廃耕していった。その時ただ一軒でラベンダー畑を守り抜いたのが富田さんだった。ラベンダーを香料原料ではなく花そのもを観せようと考えたのである。そして次第に全国から多数の人々が観に来るようになり、来た人達の喜びと応援が富田さんに自信を持たせた。こうして観光農業という町おこしの道が開かれた。これが明治以降の殖産興業のケースと異なる発展のケースだった。
 今から二十年程前、北方圏交流といって・北欧・カナダ等北の国々との交流や産業を中心としての市民の交流が盛んに行われ、これにより北海道の新らしい行き方が展けるかと思われたが、今はその活動は個人レベルに収斂された。緯度が同じだから一つに括れるものではない。鹿児島県の焼酎も沖縄の泡盛も、エコノミストは同じ蒸留酒だと一括するけれども、酒飲みには原料も(芋と米の差があり)味も全然違う。
 富田さんはラベンダーにも色々と種類があることを知っている。日本のラベンダーは最初富田香料(株)が戦前南仏プロヴァンスから種子を貰ってきたから勿論プロヴァンスにも行く。そして北限と云われている英国ノーフォークのラベンダー農場にも、また南半球のタスマニアのラベンダー畑にも行って、各種のラベンダーの品種改良の流れに意を配っている。ラベンダーの開花期は長くないので、観光客のことも考えて各種ラベンダーとハーブ系の種類を組み合わせて特別な美しい色を持つ彩りの畑をつくり、長期間楽しんでいただくよう工夫している。今年は夏の到来が遅れているが、彩りの畑にはポピー、カスミソウ、ペパーミント、矢車草の、広い巾の色鮮やかな花の列がベルト状に咲き出している。これにラベンダーが咲いたらどんなにか素晴らしい光景になるだろう。しかし富田さんは「ラベンダーは香りこそが生命」の信念を堅持している。此の頃は原産地のプロヴァンスでも、コストを考え、オイルの収穫量の多いものに品質改良の傾向があるが、原点の時期のプロヴァンスの香りと、それから抽出される天然香料のエッセンシャルオイルに精出している。今後は更に良い香料を生み出すためのラベンダー畑の栽培と蒸留工場造りの夢を実現しようと 調査研究に励んでいる。そこに富田さんの「花の農業人」としての本領があると思っている。
 私は、妻が医師の過失で食道損傷の事故にあい、今は腰椎を病んで寝込んで居るので、この頃は”たそがれ清兵衛”ではないが、デパートの食料品売り場へ買い出しに行く。最近は聞き慣れない名前、珍しい形の野菜や果物が増えた。海外旅行者、海外からの帰国子女が増えて売り上げも上昇していると云う。「新・泰西農法」のシーズン入りかも知れない。自然に恵まれ、進取の気性を持った富良野地区の若者達から、第二、第三の富田さんが出て呉れればと祈ってる。

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