2005年(平成17年)6月10日号

No.290

銀座一丁目新聞

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茶説

靖国神社参拝中止を求める愚に怒る

牧念人 悠々

 日本人が靖国神社を参拝するのを反対する日本人がいる。こんな愚かなことが起きるのは日本だけであろう。腹立たしい限りである。小泉純一郎首相の靖国神社参拝は公的であろうが私的であろうが構わない。「私の信条から発する参拝に、他の国が干渉すぺきでない。心の問題は自分自身の判断で考えるべき問題だ」と言う首相の言い分は当然である。戦没者250万柱を祀る靖国神社は戦後60年間、一貫して戦没者慰霊の中心的役割を担い、その冥福と平和を祈る社会的・宗教的使命を果たしてきた。この社には「他者のために欣然とわが生命を犠牲に供した人々が神として祀られている」(小堀桂一郎著『靖国神社と日本人」より)。国に殉じた人々に頭を下げ、不戦の誓いをする首相の信条のどこが悪いのか。小堀さんは説く。「戦後の日本人は何かにつけて『貰う』こと『要求する』こと、時には『奪う』こと、総じて権利行使と称して獲得と所有に関わる我慾を貫き通すことが好きな人種になった」。戦後民主主義は日本人を賎しくし、醜くしたともいう(前掲の書)。
 小泉さんの靖国参拝を中止させるために国益論が出てきた。中曽根康弘元首相は講演会で「信念を貫くことも立派だが、国家全体の利益にどういう作用を及ぼしているかを考えるのも大事な点だ」と述べたという(6月3日)毎日新聞は社説で「国益のためにやめる勇気を』と参拝中止を求めた(6月5日)。国益とは何か。「謝罪を行動で示せ」と言う中国の言いなりになることか。それとも目先の中国貿易の利益のためか。戦後首相が靖国神社を参拝したのは、吉田茂5回、岸信介2回、池田勇人4回、佐藤栄作11回、田中角栄5回、三木武夫3回、福田赳夫4回、大平正芳3回、鈴木善幸8回、中曽根康弘10回、橋本竜太郎1回、小泉純一郎4回である。平和憲法のもと、靖国神社に参拝、不戦を誓う日本国首相は戦後60年一度も紛争解決のために武力を行使したことはない。まして侵略戦争を仕掛けたこともない。戦争中迷惑をかけた近隣諸国には何度となく謝罪をしている。中国の狙いは反日愛国運動である。ことあるごとに日本に抗議をするのは国内の不安を日本に向けさせるためにほかならない。それをあえて国益と言うのは明らかに中国を利することになる。
 東京裁判で刑死された7人と未決中に病死した2名と受刑中に死亡した5名のいわゆるA級戦犯14名の合祀問題に触れる。もともと日本政府は遺族援護法、恩給法の法改正の中で戦争犯罪裁判の被告・受刑者達を国内法で言う犯罪者とは認めなかった。法務死を強いられた英霊と見た。だから独立後B・C級の法務死の英霊が靖国神社に昭和34年から合祀がはじまり、14名の刑死者は法務死者として昭和53年10月に合祀された。東京裁判は勝者が敗者を裁いた国際法無視の裁判であるというのが国際法の常識である。平和条約(11条)で受け入れたのは東京裁判の「判決」である。戦争犯罪を認めたものではない。独立後日本が恣意的に受刑者の赦免、減刑、仮釈放などの執行するのを阻止するためである。小泉首相が持ち出す『心の問題』は日本人の心の問題である。それを国益の名のもとに封殺しようとする・・・なんと日本人も堕落したものである。小堀さんの本に戦争未亡人の歌がある。最後に掲げる。
 「かくばかりみにくき国となりたれば捧げし人のただ惜しまる」

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