「大義」の著者、杉本五郎中佐(陸士33期)の名前を毎日新聞で見つけた(6月6日)企画物「似島物語」(2)に中佐の長男が登場していた。昭和13年に出版された「大義」を中学生の筆者はむさぼり読んだ。軍人を志した城山三郎さんがその著書「大義の末」に「胸にりんりんと迫るものがあり『汝、我をみんと要せば尊皇に生きよ。尊皇精神のある処、常にわれあり』にはじまるいくつかの節を暗誦した」と書くように私も同じようなことをした。昭和18年4月、陸士59期生として杉本五郎中佐の後に続いた。杉本中佐は歩兵11連隊(広島)中隊長として出征、少佐に昇進直後の昭和12年9月14日中国戦線で戦死された。支那事変が始まってから僅か2ケ月後のことである。37歳であった。本が出たのは翌13年である。ベストセラーになった。佐藤卓己著『言論統制』(中公新書)によれば陸士33期は個性ある思想的軍人を数多く輩出していると指摘する。同書の主人公である鈴木庫三大佐は極貧から刻苦勉励し東大で教育学を学んだ情報将校であった。戦争中は言論統制で勇名を馳せた。大本営報道部長(昭和16年10月から17年3月)・大平秀雄少将、陸軍省調査部長(昭和20年7月から20年9月)・都甲徠少将は鈴木大佐同様情報戦や思想戦で名を残した。同期の首席である田中弥大尉は2・26事件の取調べ中に自殺した。この本には触れていないが、山口一太郎大尉は歩兵一連隊中隊長で事件当日週番司令で、決起部隊の出動を黙認し、その後も事態の収拾に当たったことが問われて反乱幇助罪で無期禁固に処せられた。中退したが詩人三好達治も同期生である。
毎日新聞によれば、戦地で書かれた杉本中佐の文章には多くの伏字があった。そこには中国人を殺傷し略奪する日本軍を「悲しむべし」と批判し「亡国の緒戦」と日本の敗戦を予言していたとある。そのころはそのようなことを知る由もなかった。ひたすら「捨身殉忠。悠久の大義に生くるべし」と信じていた。同期生長井五郎の区隊長は杉本中佐を尊敬していた。折を見て生徒に杉本中佐の伝記かその著書「大義」を読むんで聞かせたという。「大義」が私に与えた影響は少なくない。戦後民主主義の世の中になってもその残滓が残る。案外、残滓が本質かもしれない。「滅私奉公」の言葉が好きだし、月1度は靖国神社には参拝する。新渡戸稲造著「武士道」(矢内原忠雄訳・岩波文庫)は座右の書である。
(柳 路夫) |