2005年(平成17年)5月20日号

No.288

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
自省抄
北海道物語
お耳を拝借
山と私
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(203)

昭和殉難法務死追悼・年次法要に感あり

  今年もまた昭和殉難法務死追悼・年次法要が、山桜が清らかに散り始めた高野山 奥の院の供養塔前で執り行われた(4月29日)。今年の祭主は近畿偕行会後藤由郎さん(陸士55期)。導師は高野山真言宗管長資延敏雄猊下(総本山金剛峰寺座主・陸士55期)。今回は東京から同台経済懇話会の会員31名が参列した。英霊殿の横にあるこの供養塔と追悼碑は、平成6年5月前橋予備士官学校出身の有志が戦犯の汚名の下に刑場に消えた1180柱の御霊を祭るため建立したもので爾来毎年追悼法要を行っている。今年の参列者は遺族を含めて200名を越えた。その中に昨年の法要でフラメンコの創作舞踊「カリマンタンの幻想」を披露した遺児山口のりこさん(大和市在住)の姿もあった。のりこさんの父、飯間学二さんは警察官であった。海軍軍属民生部の要員として昭和17年6月出征。戦後昭和22年4月14日、オランダ国の軍事法廷でC級戦犯の名を着せられて東カリマンタン(ボルネオ)のパリックパパンで銃殺刑に処せられた。父を知る人の話では「仲間をかばって死んでいった」ということであった。戦争中、ボルネオ島は海軍の領域で、多くの海軍軍人や関係者が軍事裁判にかけられて非業の死を遂げている。飯間さんと同業の石田光行海軍警部は取調べ中の拷問に耐えかねて縊死。また佐賀県出身の石田警部は「吹き荒れる嵐に垣根とられても素直に伸びよ大和撫子」の歌を残して自決している(岩川隆著「孤島の土となるとも−BC級戦犯裁判より」)。平成7年、東カリマンタンへの慰霊の旅を果たしたのりこさんは鎮魂のフラメンコ「カリマンタン幻想」を創作、各地で精力的に上演活働。55期の方々の進案によって聖地高野山での奉納公演が実現した。この舞踏を御覧になった資延管長は、のりこさんの説明に「これは藝術ですね。時空を超えた霊魂との対話がここにある」と大きくうなずいたという(「季刊忙中閑話」平成16年盛佳夏号より)。資延管長たち55期生は大東亜戦争で地上兵科518名、航空419名(うち特攻戦死13名)が戦死している。法務死者の遺児の言葉に即座に響くのは当然であろう。
 法要に出席した野地二見君(同台経済懇話会常任幹事・59期)は「霊気のこもった女性に会った」と、霊場高野山に舞ったのりこさんのことを静かに語ってくれた。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp