2005年(平成17年)5月20日号

No.288

銀座一丁目新聞

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(5)

「サクラ サク」

−宮崎 徹−

 今年は春が遅い。地球温暖化などと云わないで旭川の様子を見に来いと云われて数日間滞在した。五月九日が観測所の開花宣言予定日だったのがその日に雪が降って了った。一番遅く雪の降った日を終雪日と云い、気象台の統計では旭川の戦後の記録では昭和二十五年の五月二十五日が最遅記録で今年は二番目になるとのことである。櫻の前触れに咲くこぶしの花も未だ半開で、北海道では櫻と同じ様に白い花弁で同時期に咲く櫻桃も花の気配はない。当地の櫻の名所として知られる鎮守の森の上川神社も、また近年動物園で有名になった旭山も花見の人出は無かった。
 チェホフの”桜の園”の劇の第一幕。ト書きでは五月で白い櫻の花が窓越しに見える部屋で「零下三度の寒さで櫻は満開だ。どうも我が国の気候は・・・」というセリフがある。旭川に似ているなと思うが、これは櫻桃で、この題名は「櫻んぼ畑」と改訳せよと札幌生まれの劇作家久保榮氏は云ったそうである。また戦前の小学校の修身で、米国初代の大統領のワシントンが子供の頃、家の大きな櫻の木を斧で切ったいたづらに父親が怒って犯人探しをした時、正直に名乗り出て父親は喜んだという話を教えられたのは初老の人達は皆知っているが、此の櫻も実を採る櫻、サクランボで、お酒やジュースを作るためフランスから輸入したものと云う。
 帝政ロシアの貴族の没落を挽歌とも或いはコメディとしても演出される「桜の園」も、建国伝説として実際は少し怪しまれているワシントンの櫻の話も、櫻は果樹と云う欧米観の上のことだが、日本人の櫻を見る感情は異なる。
 大宮人の櫻、西行法師の歌、平家物語・太平記、更には吉野・九段の櫻など、専門家に云わせれば、同じソメイヨシノではあり得ないが、明治三十年代にまちづくりが始まった旭川では、故郷の白い染井吉野の櫻を忘れず、原生のエゾヤマザクラも交えて、長い冬の厳しさを耐え抜いた報償とも云うべき此の櫻の開花を待ち望む。ぱっと咲いてぱっと散るのが櫻の特徴とされるが、それは染井吉野が際立っていて武士がそれを美点としたのももっともである。旭川は気象の関係か開花から満開迄が三、四日間程と短かく、突風が吹いたり、寒気が来たりすると花見のチャンスを失うのである。
昭和二十五年五月二十五日が戦後の降雪の最遅日と書いたが、その頃私は未だ東京暮らしだった。此の前年マッカーサー司令部は農業改革、つまり地主から土地を国が買い取り小作人に売り渡すという画期的な自作農創設を二年がかりで政府に行わせた。イラクを見ても米国占領は良いことばかりではないが、小作制度の廃止は戦前からの課題で、此の外圧で一挙に可能になった。ただ当時の自作農は五月の降雪をどう思ったろう。櫻の開花は農業の進め方にも関連があるので当時の模様は想像するだけだが、今年はどうかなと、今は都民の私も少し心配であった。
 最後の十四日は午後一時の飛行機で旭川を去ったが、この日上川神社の気象台標本木の櫻が七、八輪咲いて気象台は開花宣言をした。平年より七日遅れである。水田も水を張り終わって田植えが始まるというという知らせもあった。昔のような手植えではないので作業の遅れも取り戻せるだろう。旭山動物園のオランウータンもロープにぶら下がりながら今年の花見を楽しんで居ることだろう。

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