2005年(平成17年)5月20日号

No.288

銀座一丁目新聞

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自省抄(30)

池上三重子

    4月13日(旧暦)

 自信なし、自信なし。何が、と問われれば、優しくおだやかに満遍なく、どんな人にもどういう時にも! 口に出さない焦々が、時に額に静脈を浮きたたせて癇癪の跡を手鏡でおしえ苦笑させる。「桑原くわばら」と書きながら、この熟語、簡単につかったけど語源が気になる。今、事務と医務に使いしてもらっている大曲士、帰室を待って広辞苑で調べることにしよう。

 久しぶりに、庭の桜の花の下へストレッチャーで。入浴の帰りに、担当の吉川主任のお志よ。花陰の散策は三年ぶりであろうか。
 園の並木のみごとな桜が散り初め、葉が目につくようになっていると聞いたが、手鏡で見る私にはそれと知ることはできない。満開の観の風情が遮光用のカーテンの向こう側に展けていると思うから心はのびやか。窓から見る花に緑は点在する程度だが、外へ出てみればちらほら花びらが舞い落ちて、すでに葉桜、には驚かされた。
 樹下にうつる枝々の影は、まるで、ほどほどに揺れ動く菱の花茣蓙。むかしむかし学校の北側の、堀の岸近い浮藻の群生を思い出しもした。
 陽射しは顔面を灼くきびしさ。目をあけていられない。先年は桜吹雪を全身に浴びて高揚感のきわまりを味わい、今回はちらありちらありの静かな一片二片の落花に、逝く春を、来つつある初夏の匂いを感じさせてもらうことができた。佐々木信綱博士の一首を偲う。  ありがたし今日の一日の我が命
  恵みたまへり(?)天と地と人と
 生きとし生けるもの人! の生の「ありべきよう」を完璧に歌い遺漏するところなし、と言えるのではなかろうか。「恵みたまへり」か「恵みたまひぬ」か、新聞の折々のうた欄での記憶が定かでない。
 今年、園の並木のさくらを初めて手鏡でながめ、入浴前後、ストレッチャーに抱え上げられつつ、見事みごとと堪能したのは先日八日、花祭りの日であった。潅仏会に因んで西行法師と明恵上人の桜の歌を思い出して自省抄に記したのだった。
 花祭りの日、父は天から甘露が降ると、天竺花を高く竹竿の尖端にささげた。用意は七日の夕刻だが旧暦だったから、現在の太陽暦でいえば五月に入っていた。庭の草花を束にしたもので、矢車草のピンクと藍いろに春菊の黄色が印象に深い。
 母の茣蓙機の南の窓には、
  ちはやふる 四月八日の 吉日に
  神 長虫の成敗ぞする
 と、紙の短冊切りに片仮名で墨書して貼った。長虫は蛇のことであったろうか。三十一文字みな片仮名だからカミナガムシとは何だろうと思ったものだ。訊ねておけばよかった、喜んで教えてくれたであろうに。
 鉢に甘茶をみたし、笹の小枝でふりかけながら南の庭を廻っていた。
 思い出はやさしさの玉手筥。
 汲んでもくんでも泉湧く玉手筥。
 甘茶の湯舟に天上天下を指さされる潅仏会の童子像は告げていた。
  天上天下 唯我独尊
 人間一人ひとりの相だ。
 人間の生命は唯一!
 尊い一回きりの人生を言いきっている童子釈尊のこの像は、人間のみならず生きとし生ける万物の象徴よ。犀の角のように独り歩めとの暗示よ。

 田中様おことづけのお花はクリスマスローズ、ジキタリス、ムスカリに加えて野の花々。仏の座、雀のえんどう、ツタンカーメンえんどう、三味線草のペンペン花薺などなど。
 一瞥、声になるほどの喜びだった。家の前は土手。柳の萌えを見上げる心の弾みは青春の息吹に他ならず。姉のお供で生花用の柳の小枝・二肢を覚えたのが土手の散策の始まり……思い出を繰れば切なくなる……
 ああ、さくらが終わる、春がおわる。
 孤独を愛しんだ明恵上人は、「心あらばのどかに匂へ桜花のちの春にはいつかあふべき」と歌った。天竺渡海の念願はあきらめに終わったが、釈迦崇敬をつらぬき通した上人。白洲正子の著書に憑かれたようで、紹介欄に記されたものは残らず読みたくなった。が、暫くおくことにして、森繁久弥の著書を注文する。注文は外界との交流孔、ひかりがそこから射して心に活性を与えてくれる。
 エリート中のエリート、白洲さんから解放されたくなってよかった。庶民の知らぬ世界に遊ばせてもらったことを喜ぼう。
 口渇癒しに、蘭茶ひとすすり。口腔を潤す程度の少量ながら、春蘭で手作りされたこのお茶は初。手間ひまかけての田中様おことづけのお茶は、優雅なくらしという日常を偲ばせて香ばしい。
 母よ!
 何かが、忘れものを思い出そうとするかの感じでひっかかっているのですが、定かでないのですよ。
 夕食献立放送が始まっています。
 夢見にお待ちしますね。



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