2005年(平成17年)5月10日号

No.287

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追悼録(202)

三岸節子の宿縁と相克

 画家、三岸節子は平成11年4月18日、死去した。享年94歳であった。私と同じく120歳まで生きるといっていた。名も節子である。私は節男で、節子という女性には親しみを感じる。しかも節子という名の女性は優れた人が少なくない。郷里も私の母親は岡崎で、起町の彼女とは同じ愛知県である。八丁味噌を好んだのも懐かしい。三岸節子を夫の好太郎とともに、澤地久枝さんが「宿縁」と「相克」の二つの視点から取り上げ「好太郎と節子・宿縁のふたり」を著した(NHK出版)。31歳で死んだ好太郎とは10年しか生活をともにしなかった。その夫婦のありようは壮絶にして絶妙というほかない。女性関係は絶えず、性病までうつされた好太郎によく耐えたものだと思う。浮気を「神の過失」といい「至高の禁を犯す」と男性は口にする。節子は常識では通用しない背徳の飛沫を浴び、死にたいと思いながら結局は許す。それでいて二人とも素晴らしい絵を後世に残す。画業に打ち込むふたりの心がお互いを離れ難くしたのであろうか。最初の二人の住まいに好太郎は机ひとつとゴヤの画集だけを持ってくる。好太郎の絵がポエジーというのはわかるような気がする。私ならみかん箱の机と新渡戸稲造の「武士道」を持ってゆく。
 「女房は愛だ」という好太郎が「君は恋だ」といった吉田隆子は少なからずの影響を好太郎に与える。著者は隆子を「若くても口先でごまかすことの出来ない、硬い骨を持っていた」と表現する。節子が好太郎の人物の中でも最も優秀な絵だといったのは隆子がモデルの「少女の首」であった。澤地さんは優しい。この絵には品がないという。節子の自尊心を最終的に傷つける隆子像を好太郎は描かなかったのではないかと思うといっている。もっとも夫の死後65年を生きた節子自身、夫を天才的な画家として尊敬しており、それ以上に自分に人生を教えてくれた遺産を莫大なものだと信じ、この夫によって藝術というものを知ったと言い切っている。夫婦の有り方は千差万別でこれといった形はない。運命的な出会いといい、宿縁と言われる。私には好太郎と節子は芸術作品を生み出すために神によって結ばれた「神縁」であったように思える。

(柳 路夫)

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