安全地帯(108)
−信濃 太郎−
夢がなければ私たちは生きていけない
前作「眠る男」から9年ぶりという小栗康平監督の映画「埋もれ木」を見る(4月21日)。小栗さんの映画はあまり脈絡を考えない方が良い。イメージを大切にすればわかりやすい。埋もれ木とは火山の噴火で埋もれた樹木で、地中で水の供給があれば立木のままで発見される事がままある。映画では3800万年前の火山の爆発で埋まったものと説明されている。日本では島根県三瓶山の小豆ケ原の埋没林が有名である。その埋もれ木が大雨の後町のゲートボール場のがけが崩れて出現する。その木が町の地底に生きていたことに町の人たちは驚く。目の前に見えるものだけが現実ではない。その現実が「変わることができる」「柔らかいもの」として捉え直してみたいというのが監督の狙いである。埋もれ木の森に人々が集りカーニバルが開かれる。少年少女の夢を、はては大人の夢を乗せて鯨の紙灯篭に風船をつけて空高く飛ばす。赤い馬も飛ぶ。それは装飾性豊かに現実を昇華させた琳派の世界であると解説される。私には光琳の「雪竹図屏風」が浮かぶ。緑青の竹9本、雪の積もった竹枝、それに雪の覆われた岩。雪の晴れ間のなんとも言えない静寂さを感じさせた。映画は色彩感のある夢幻の世界へ誘う。
主人公の少女は友達と短い物語をつくり、それをリレーして遊ぶ。それは未来へ向う物語である。町に住む大人達にも物語がある。それは過去の物語である。かっては近在へのバスが発着するターミナルであった。今は人の流れが変わった町はずれになって取り残された。マーケットの人たちは支えあいながら生きて行く。三ちゃんは車好きでお人よし。魚屋さんは隣の手作りの豆腐屋とお茶を飲みながらゆったりと時間を過ごすのが好き。クリーニング屋も新しい機械を入れずに手仕事でこなす。丸井は腕の立つ建具屋だがいまはタクシーの運転手。埋もれ木の発見でもとの建具屋へ戻る。平凡ながらそれぞれに人生がある。それぞれに夢と思いがある。並行であった子供と大人の物語が「埋もれ木」で交差する。自分の居場所を探す少女たちと固有の時間の流れを持つ大人達はともに夢をもって生きている。埋もれ木が絶えず水を補給されて生きてきたように人間も親、友人や隣人に力付けられ、鍛えられ、自然にはぐくまれて生きていることを映画は教えている。 |