2005年(平成17年)5月1日号

No.286

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花ある風景(200)

並木 徹

権現山の碑前祭を取材される

 恒例の長野県浅科村(4月から佐久市と合併)の権現山の碑前祭と観桜会に参加した。集った同期生17人(夫人一人)。今年もまた54期の笠島孝一さんと55期の森泉猛さんが出席された。それに望月高校の三学年主任、大田一昭先生と三年生の生徒二人が特別参加した。望月高校の前身は望月高等女学校で、学校本部の在ったところである。昨年に比べると櫻は見ごろであった。風は意外と冷たかった。
 望月高校では昨年9月の文化祭で「僕たちの町にも戦争があったー望月 陸軍士官学校」と題して二学年生の研究発表を行い、その冊子も発行した。笠島さんも同期生の三浦章君(予科27/1・航通)も取材を受けている。研究冊子には陸士疎開のねらい、疎開の受け入れと実際の状況、陸士の歴史、各兵科の説明、証言シリーズなどがある。同期生、藤野浩一君(予科32/2・船舶・三原市在住)が生徒の求めに応じて望月町と59期生の係わり合いについて答えた長文の手紙も収められている。その手紙の中で藤野君は昭和20年8月31日の復員の模様を綴る。「特別仕立といっても有蓋貨物列車で誰が買ったのか田中駅まえの曲がり角にあった古本屋から「姿なき怪盗」(甲賀三郎著)を回し読みするのが唯一の慰めでした。田中駅を31日午後出発(小雨野中)広島県の最寄駅に到着したのは9月2日の午前5時でした」。
 私は当時の様子を詳しくは覚えていない。茫然自失、31日に母親の実家である愛知県岡崎市に復員した。岡崎の一面の焼け跡を見て8月31日が自分の20歳の誕生日であるのに気がついた。小学校をハルピンで、中学校を大連と満州育ちの私はねばり強く、負けず嫌いである。すぐ立ち直り職探しを始め、新聞記者として再出発した。権現山は新しい出会いを用意する。大江浩君(予科26/3・歩兵)は観桜会は久し振りだという。聞けば区隊が違うが協和国民学校で寝起きした同じ12中隊であった。奥さんを25年前に亡くし、いまだ独身の45歳の長男と暮している。食事は一切自分で作る。すべてを自分でする陸士のやり方が大いに役立っているそうだ。あと5年生きて奥さんの30年祭をしたいと殊勝なことをいっていた。望月高校生達は望月町の戦時中の様子について学ぶことによって望月―松代ー沖縄を結ぶものから平和について考えていきたいという。権現山は59期生の「心のふるさと」である。大東亜戦争の最中、国を守る為に集った若者達が一時期この地区で決戦の英気を養いつつ日夜鍛錬につとめた。敗戦で一部の士官候補生が自決を決意、ピストルの試射をしたのを依田英房村長(故人)が身を呈してなだめ、平和日本建設のために生きよ説得したというエピソードもある。その依田村長が自費を投じて立てた「記念碑」がここにある(昭和41年)。戦争のモニュメントである。昭和61年には59期生が依田さんの「顕彰碑」を建て、桜の木も百本植えた。佐久市に住む三浦君は昨年4月地元紙に「櫻は一か月楽しめます。是非公園にしたい」と訴えた。昼食は昨年と同じく足利時代からの老舗「佐久ホテル」で頂く。割り箸の紙袋には市川万庵の書と 荻原井泉水の花の絵があった。この気配りが心憎い。

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