3月26日(旧暦2月17日)土曜日 晴
今日は満月と暦が教える。
心から心にものを思はせて
身を苦しむる我身なりけり
西行の内省的な自意識過剰の心象は待建門院璋子を慕いぬき、頼朝に受けた銀の猫を門の前にあそぶ童に与える自由性……。雲に花に月にあくがれ、年来の望みのままに吉野のさくらの花の下に逝ったという。
ねがはくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
花の下に目を閉じて僧衣によこたわる姿に、月の光りが荘厳のおもむきだったろうか。あたたかな一日とラジオの予報するこの夜の月光はさて。
風になびく富士の煙の空に消えて
ゆくへも知らぬわが思ひかな
当時の富士は活動していた事が解る。西行は元北面の武士・佐藤左兵衛尉義清。愛馬を自在な手綱さばきに野山狭しとばかり駆けめぐりもしたろうか。歌のように静ごころなく、みずからの未来は空に消える火の山のけむりの行方に託すほかなかったのか。
讃岐の院・崇徳上皇の憤怒の形相に仏道精進による魂鎮めを願った西行には、親しい仲間の頓死という過去もあったようである。
幾つかの因がかさなって出離となったのだろう。僧形となっても直ちに心が仏道もっぱらにならない正直な内なる相を歌に昇華した西行。魅力つきない歌びとよ。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな
庵ならべん冬の山里
西行は僧形となっても都に出入りした自由人だが、崇徳上皇の哀れは胸を衝く。生まれながらに、祖父白河院の血をひく「叔父子」と実父鳥羽院に疎まれ、美福門院らの奸計に翻弄された生涯四十五年……四国松山へ樫車で運ばれるとき、鳥羽上皇の墓所の前で止めさせ拝したという子の心! 冷たくあしらい果てた親を恩讐の彼方としたというのか。崇徳上皇の外見の惨はその心によって、自ら救われていられたのでは? 今ふとそう思われた。
浜ちどり跡は都にかよへども
身は松山に音をのみぞなく
泣き哭きのはたては悪鬼悪王となり果てて、髪もひげも手足の爪も伸び放題とは、お痛わしやおいたわしや。
溜息がでる。
おもわぬ吐息だ。
私は宇高連絡船に乗って四国へ三回行ったようだ。徳島の姉の求めで。姉は満州から引き揚げて二十日ほど家にいたろうか。父母は四国の旧家という義兄の生家をあてにして、促すように帰郷させた。
姉たちは小さな長屋住まいだった。裏長屋とはあんな場所と住居をいうのか。お産介抱に母を送っていった時、姉はそっと囁いた。
「おっかしゃんな、びっくりしとらっしゃろ?」
自分らの住む長屋を訊ねたのだ。
母は何も言わなかった。が、後で、
「行くなと言うとに、親捨てて満州さん行たてしもうたげんない(ね)」
姉は三人の娘を得、孫が来るのが楽しみと……大腸癌で逝った。夫婦の仲むつまじかったことと三姉妹の子宝が私には喜びとなった。母の百歳記念に義兄が来寮を申しでたけれど母は断った。姉はすでに亡くなっていた。
六十三であった。
母は夜半すすり泣きつつ呟いていた。
「おまいの果たしきらん業(ごう)は、あたいが果ててやるばい」
兄に次ぐ姉の死、のこるは不治永患の私、そのとき五十七。
母が愛おしかった。
ただただ、愛おしかった。
寝たきりの現状とちがい、ベッドに腰掛けて前に卓、後ろにバックレストのサンドイッチ型の倚座位だったが、不治永患にかわりはなかった。
ごめんなさい……
ごめんなさい……
十一時五分。
ペンをおき暫時、目を身をいたわりましょう。なんだか目覚めから疲労感ありなのは何故……そうだ、誤字脱字の著しさに書き直しをおもいつつ、何日分かの自省抄をうんざりしつつ何枚かを読み直したのだ……儚し……
今日という日を恵まれていながら、雑駁な時々刻々となしてしまったなあ。
母よ、誤字脱字のすさまじい頭脳の衰退をかこち、鬱々です。が、これも、わが現状。ならばよしよしと背を撫でお手々をいたわる事にいたしましょう。
思っても解っても、叶わぬことは叶わぬなりに任せましょう。焦ついても、残念無念と歯噛みしようと成らぬものは成らぬと。
母の聡明さと真っ正直さはひとつもの。私は父似の、せせこましい神経質の血と不正直な見栄っ張りを継いでいるようです。母よ、あなたに「こんな子を産んで良かった」という子でありたかったけど。それは兄と姉それぞれに継がれ、私は……
今日はあたたかいという。
妙子先生がいらして下さるかも知れぬ。
一期一会のおもい泌む体面のひとときを重ねて来た。今も健やかな御身を信じてお待ちするのだが、どうぞその通りであって欲しい。
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