私の手元に衆議院議長を務めた堤康次郎さんについて書いた本が二冊ある。堤康次郎著「人を生かす事業」(有紀書房刊・昭和33年9月発行)と富沢有為男著「雷帝堤康次郎」(アルプス刊・昭和37年8月発行)である。いずれも40年も前の出版で、堤さんの直筆の署名がある。このころ取材を通じて堤康次郎さんとは交流があった。部下にはよく怒鳴った人らしいが、若いとき苦労しただけにえらぶったところがなかった。
本によると、10代で米相場や株に手を出している。日露戦争の直ぐあとで、2円50銭払い込みの日本水力の株を20円で買ったら、しばらくたつうちに50銭に下がって、一株19円50銭損をする。米相場も同様だった。明治42年、21歳の時早稲田大学に入るため上京する。アルバイトに精を出して学校には余り顔を出さなかった(大正2年政治経済学部卒)。綿糸相場で株でもうけた大部分を損する。経営した鉄工所には失敗。頼まれた雑誌も返品の山を築く。真珠の養殖も回漕業業も駄目であった。この失敗から事業は「感謝と奉仕」とさとる。そして誰も手をつけなかった未開発地である軽井沢、箱根の開発をてがけた。新しい人生観にたってからの事業は順調に伸びていった。もともと政治家志望で大正13年、36歳で代議士になっている。当選13回を数える。昭和28年5月、自民党の益谷秀次を破って改進党から衆議院議長となる。このときまで堤さんが代議士であることを知らなかった議員が多数いたというウソのような実話があったと「紺碧の空なほ青く」(近代日本の早稲田人550人)に紹介されている。
羊頭狗肉の広告を嫌った。西武学院で著名なデザイナーの名前を出して生徒募集をした。ところがこの先生就任して7カ月間のうち学校にきたのはたった8回だけであった。月に一度ぐらいしか学校に来ない先生は先生とは言えない。生徒をだますようなものだと言って康次郎さんは断固としてその著名な先生を断ったという。
堤さんの健康法というのが面白い。まず「ウソを言わないこと」。つぎに「極端な早寝朝起き」。寝るのは午後8時。夜の宴会は午後8時前に失礼をする。ワンマン宰相といわれた吉田茂が「俺よりわがままな男がいる」と驚かせている。朝は午前4時に起きて本を読んだり書類を見たりする。それに酒、たばこをのまない.間食もしないことだという。
昭和39年4月、75歳で亡くなった。最大の失敗は「子孫に美田」を残したことであろう。
(柳 路夫) |