2月10日(旧暦1月2日)木曜日 快晴
冬ごもり病の床のガラス戸の
曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ
子規の病がかるい頃のひとときのすがたが、その喜びとともに伝わってくる。紙障子をガラス戸に替えれば寒の晴れた冬空が仰がれ、庭先の冬ざれの眺めも近々と親しい子規であったろうか。
碧梧桐に牛飼いの左千夫や虚子などの弟子が枕辺におとずれて、話題や物を呈上するとはいえ、病床六尺の日夜は無聊をかこちたい時もなきにしもあらずだったかもしれない。 瓶に挿す藤の花房短かければ
畳の上にとどかざりけり
畳の上にとどかない短い藤の花は誰がもってきたのだろうか。今、ふっと彼の身辺に母上と妹ご律子の他に女気のない寥気みたいなものを感じる。こんなことを、かつて私は思わなかった。考えもしなかった。これは私の心の投影であるに違いない。
私は寂しいのだ、きっと。幼い頃の記憶に残る私は、妙子先生によれば田中のブンたん興行の芝居小屋で姉に手を引かれて、にこにこ笑いかけたそうな。
女学生の頃の記憶は、帰りみちだった間々田部落でのこと。数人の男の子たちがパチか何かで集まっていた。私の視線と合った一人が「あんでと、しれしれ笑とらっぞ」と。いきなりの言にバツが悪かったか羞恥しかったか。以後は屯する男子達へ顔を向けることを厳重警戒するようにした。
何も、しれしれ笑って悪いはずはない。「しれしれ」は「にこにこ」の方言である。生来的に私は人恋しく、懐かしい性情らしい。女学生の頃は中山病院のナースが慕わしく、赴任校の職員旅行で乗った観光船の案内嬢・和田さんはたった一ぺんきりひとときのご縁が、今もその若い健康美はつらつの面影ともどもに、声も声調も今ここの観である。
「あすのさ(明朝)ややさんば(赤ちゃんを)産んどって」。毎晩、母にこの言葉で注文して眠りに就いたものよ。
お向かいの駐在所の、巡査さん宅の若い奥さんの傍に坐りこみ、私は嬉しくて緊張して、奥さんと同じように上体を二重に曲げて赤ちゃんを覗きこんだ。可愛くて、どうしようもなく可愛く離れがたかった。母が迎えに来てつれ戻すまで。
話を子規に戻そう。
終焉の子規の背中の激痛は想像するだに痛ましい。褥には蛆虫が這い回っていたという。号泣する、喚く、と書いているが、どんなに辛い病床だったか。大喰いに驚いたが下痢しても、消化しないままの排泄物も、生きたい執念か。生命体が為させた営み、子規よ! 私はあなたの痛を共時する。劇痛を共時する。
同悲同喜の感情を賜え、心を賜え、と祈りつつ書いたのは私が四十歳の時。柳川市蒲池の下田町在。特別製の机を前に、後ろはバックレスト。鉛棒の幾本かを入れた袋二つをガチャガチャンと音立てて支えとし、私の倚座位が崩れぬよう丈夫な布綱でバックレストの両端をベッドに結びつける。
それは、朝々の母の日課であった。
母よ!
お世話かけましたねえ。
讃えてもたたえても尽ぬ恩愛の絆です。絆が慚愧させ、ひれ伏させ恋わせ、いや増す慕わしさです。
同悲同喜の心を賜えと祈ったのは、すでに生地に素質にあればこそ生じた奥の声の顕われでしょう。ずぼらでいい加減で移り気な面を私は自身に認め、深く頷くことができます。同時に、同悲同喜の沸々とたぎる心情もです。
母譲りです。
母は気紛れではない堂々たる一貫性を、その生涯の言葉と行動によって見せました。危さのない美しい見事な母でした。私は私の亜流でしょう。
母よ!
五時に近付きました。
今から藤田順子さんを偲び、彼女の著したおひな様の本を見るつもりでした。佳き快々デーでした。
今夜もお待ちしますからね。天と地と人とに恵まれた一日に感謝をささげつつ。
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