同期生、広瀬秀雄君から送られてきた講談社企画・製作・監督小林正樹「東京裁判」(前編)と(後編)の長編記録映画VIDEOをみる。4時間37分の長編である。講談社の70周年記念事業の一つで、それなりに力を入れた意欲作であるのがよくわかる。
東京裁判については児島襄著「東京裁判」(上)(中公新書・昭和46年3月発行)「同」(下)(同・昭和46年4月発行)、冨士信夫著「私の見た東京裁判」(上)(下)(講談社学術文庫)、小堀桂一郎編「東京裁判日本の弁明」(講談社学術文庫)、清瀬一郎著「秘録東京裁判」(中公文庫)、田中正明著「パール判事の日本無罪論」(小学館文庫)を既に読んでいたので、何処が裁判のポイントであるか理解できる。東京裁判は明らかに勝者が敗者を裁く、復讐を目的としたものである。日本の敗戦まで国際法は戦争を始めること、これを遂行することを「犯罪」としていない。それを「平和に対する罪」の罪名を設けて断罪した。これは近代法が禁止している「事後法」である。しかも裁かれた期間は昭和3年1月1日から昭和20年9月2日までの17年8ヶ月の長期にわたる。清瀬一郎弁護人が「裁判所の管轄権に関する動議」を出し、その不当を質したのは当然であった。
侵略戦争の共同謀議をうたった起訴状の内容について賀屋興宣元蔵相(判決終身刑)は「なにせ、あんた、ナチと一緒に、挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画もできずにせんそうになってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」(小島襄著「東京裁判」上)といっている。映画のナレーションも同じ事を伝える。
この映画の欠点は「南京虐殺事件」のシーンに、この事件を告発した中国側作成の映画「中国の怒吼」の一部を挿入した点である。この場面はすべて中国の謀略宣伝である。日本の映画制作者たちがまんまと中国の謀略工作にひかかった。逃げる中国婦人や老人たち、後ろ手に縛られて日本兵に連行される男、もみ合う群衆と兵隊、兵隊に引きずられてゆく男泣きわめく女、縛られた姿で穴に落とされ土をかぶせられる男たち、路地に倒されている老人・子供、泣き崩れる女などが出てくる。冨士信夫さんはその著書「私が見た東京裁判」(下)で指摘する。「日本軍の南京占領が12月13日(昭和12年)という冬の季節であったのに画面に出てくる人の服装は明らかに夏の服装であり、一見フィクション映画であることがわかる」さらに次のナレーションを問題にする。「検察側によれば、日本軍は26万ないし30万を殺し、2万余りの婦女を暴行している。数字に極端な誇張があり、証言の中には疑わしきものもあったが、不祥事の事実は否めない。これを我々はこれを松井司令官(石根・大将・中支那方面派遣軍司令官・絞首刑)の意志に反して行われた、単なる戦争の狂気としてのみ片付けることはできない。これは、日本軍隊の組織の中に根深く育まれていた非人間性の現れであり、日本人が永遠に背負わねばならない十字架である」。ナレーションの最大眼目は「日本軍隊の組織に中に根深く育まれた非人間性の現れ」の部分を強調しようとするにあるという。このナレーションが「日本軍隊による非人間性の虐殺が組織的に行われた」ということを強調しようとの意図のもとに、このフィクションフイルムの画面に流されたのは明らかであるとする。全面的に同感である。この映画は昭和58年6月全国の東宝系主要映画館で一斉に上映された。それから5年後、冨士さんが早くもこの映画の持つ意味合いを世間に暴いた眼力は見事というほかない。東京裁判の傍聴に日参した冨士さんはもともと、南京事件における証人の証言を聞いており、多くが誤聞、伝聞であることを見抜いていた。
冨士さんは元海軍士官(海兵67期)、終戦時は海軍の参謀で少佐であった。今年の1月24日死去した。東京裁判を傍聴、克明に裁判を記録した「歴史の証言者」がこの世を去ったのは残念である。享年87歳であった。
(柳 路夫) |