競馬徒然草(42)
―追悼記・ダイワアプセット―
ダイワリプルスという牝馬がいた。細身で小柄なのは牝馬だからやむを得ないとして、決して貧弱な馬ではなかった。むしろ、きびきびとした動きで、デビュー時から、走りそうな予感を感じさせた。ひそかに注目し、出走するたびに応援してきた。なかなか走る馬で、重賞を3勝した。もう少し馬格があったら、もっと活躍できただろう。欲目にそうも思われたが、負けん気の強さには魅力があった。事実、いいレースをした。そのダイワリプルスが引退すると、1つの馬との物語は、記憶の底に秘められることになった。
そのダイワリプルスの記憶が甦ったのは、昨年のことであった。2歳馬の馬名表の中に、ダイワアプセットという牡馬を見つけた。血統欄に母ダイワリプルスとあった。厩舎(増沢厩舎)も馬主(大城敬三氏)も同じであることから、あの母の血を受け継ぐダイワアプセットへの、関係者の期待の程がうかがわれた。ダイワアプセットとの出会いは、このようなものだった。だが、そのダイワアプセットが、思いもかけない事故で死亡する不運に見舞われた。3歳のクラシックシーズンを前にした時期だけに、惜しまれてならない。最後のレースを振り返って見る。
2月6日、東京競馬場で行なわれた共同通信杯(GV、芝1800メートル、9頭立て)。レースは人気上位の5頭が5着までにおさまる結果となったが、1番人気ストーミーカフェ(四位)の1着に続き、2着には5番人気のダイワアプセットが食い込んで波乱の立役者になった。そのダイワアプセット(柴田善)は中団から脚を伸ばして2着に上がり、後ろから迫るペリエ騎乗のマルカジークを抜かせず踏ん張った。母譲りの勝負根性だろうか。だが、ゴール後に柴田善騎手は馬の脚部に異変を感じて下馬した。故障が判明した。直ちに診断所に運ばれてエックス線検査を受けた結果、右第一指骨複雑骨折で予後不良と診断され、安楽死となった。
骨折したのはゴール前のことだろうか。とすれば、それでもなお最後まで駆け抜けたことになる。痛ましい思いがする。ダイワアプセットは前走若竹賞で2勝目を飾り、クラシックに向けて期待を集めていた。その直後のアクシデントに、柴田善騎手は「いくら好走したといっても、レース後があの結果では・・・」と、言葉少なに無念さを語っていた。「あの不運な故障さえなければ・・」と思うのは、騎手や関係者だけではないだろう。ダイワアプセットの夢は、母ダイワリプルスの次の仔に託すほかはない。
それはともかく、2月6日は、ダイワアプセットの命日となった。来年から競馬の暦には、「2月6日、ダイワアプセット忌」と記されることになるだろう。血統は父エルコンドルパサー、母ダイワリプルス。享年3歳。早過ぎる死を悼む。 (
新倉 弘人) |