2005年(平成17年)2月20日号

No.279

銀座一丁目新聞

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自省抄(21)

池上三重子

  1月17日(旧暦12月8日)月曜日 快晴

 これで、私の頼まねばならぬ日課は一応終了する。母のしてくれていた日課の一つを、母亡きあと十七年目、ただ今も継続、そのことで安らぎを得る事ができるのは幸いである。本田美紀士よありがとう。
 ここまで書いた時、武下洋子ちゃん来室。ノックの仕方でぴんと来る。買物届けの用件。彼女の透明感は人品となり「ありがとうさへ言えなくなった老衰のいやはて期の利用者であろうと、彼女なら分け隔てない介護を果たす」と私は五年間に身に、耳に知り、これ以上の介護者なし。とひそかな信頼をそだてたのだ。
 無私!
 無償!
 差別皆無!
 ありがたい出会いであった。
 彼女の存在は人間自体、社会全体への信頼感の基盤よ。彼女はそんなすばらしい財産の贈り主。彼女という信頼の絶対感を捧げることの女性を生み育ててくださったご両親へ、ご家族へ感謝が及ぶのは当然か。
 阪神大地震から十年。雨の中を六千余名の犠牲者を悼む蝋燭の火が点され、追悼する人々のあつまりがもたれた。その渦中の人々の涙を、偲いをおもう・・・それはまた、私を振り返らせずにおかぬもの・・・過去から切りはなして生きる生はない。
 母よ!
 母よ!
 私はあなたを慕いやまぬ。
 暁烏敏さんの歌に、吉田松陰の歌に、わたしのおもいは遡る。敏さんは結構な僧侶の身分ながら、その遺る一首は師範在学中から秘宝の一つよ。自省抄に、数知れぬほど書いてきたよ。
 十億の人に十億の母あれど
 わが母にまさる母あらめやも
 井伊直弼の安政の大獄は、あまたの勤王の志士を獄門にほうむった。 
 親おもふ心にまさる親ごころ
 けふのおとづれ何と聞くらむ
母は唄った。
 人は武士 花は桜田ご門の前で
 水戸の浪士は掃部さん
 三月三日のねご登城
 水戸の浪士は
 真っ赤な雪降らす
水戸藩は水戸光圀の統治する藩。徳川御三家でありながら勤王の志が高かった。志士たちを獄門にかける井伊大老を血祭りにあげた。興亡すべて夢に似て、徳川家大事ゆえに勤王の有志たちを仇敵として捕えて殺し、志士たちは己の主義主張をつらぬこうと駕籠の中の大老をひっぱりり出してとどめを刺す。
 治乱興亡の徳川時代は、慶喜の大政奉還によって世は明治となる。期待をかけた明治の黎明期御一新だが、木曽馬籠宿の青山半蔵は夢破れて発狂、座敷牢の格子戸なかに幽閉される。「夜明け前」の悲劇は半蔵のみではなかったろう。
 師範卒昭和17年に求めた「夜明け前」は、赤い函入りではなかったろうか。高等科二年までの優等生、甲木真澄さんの家は貧しかった。しかし母上は彼を大牟田の三井工業へ進学させられた。
 若いときから他家にに奉公、苦労を積まれたらし母上は明るい朗らかな働き者。家の御前客となって四畳の御前の居間で食事をお上がる母上が懐かしい。
 母上も、その子の真澄さんも妻子を得て、今は鬼籍のひと。その子息正秀さんも五十代か。枕元の大きな日めくりは彼のプレゼント・・・・哀しくて嬉しくて感慨つきぬ今昔ものがたり・・・よ。
 
 母よ!
 今日も佳き日でした。新しいネグリジェは、すてきな淡いヴェージュ系。衿なし、着心地さわやかです・・・嬉し。
 今夜も夢見にお待ちしますね。
 今日は旧暦の針供養です。
 暗いとおい日の御前に、お母さん嫁入り道具の針箱、あずき色の塗りでしたね、その針箱の上に針差しを出しておき、お盆にご飯、そして一合瓶のお酒徳利を並べました。
 母よ!
 あなたの残してくださった思い出事は宝物。ありがたくてなりません。  
 では、お待ちしていますから、ね。



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