花ある風景(190)
並木 徹
心ここにあらざれば匂えども匂いしらず
好きな言葉の一つに「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」がある。何か考え事をして、ぼけっとしていると、心が集中していないから見ているつもりで何も見ていないし、聞いていても何も聞いていないのを戒めたものである。
最近、このあとの文句があるのを知った。「喰えどもその味わいを知らず」である。「大学」の訳注者、宇野哲人さんは「心ひとたび存せざれば、見聞飲食さえも忘れて一身の主なきこと、この通りである。ゆえに心を正しくしてもってその身を修めねばならぬ」と解釈する。なるほどと思う。人間の目、耳、口は身を修めるのに役立つわけである。見聞を広めるとよく言う。単に景色を見たり、古老のお話を聞いたりするだけでなく、その土地の食べ物を味わうのも土地柄を知る上で大切である。だから口の存在も忘れてはなるまい。「食えどもその味わいを知らず」の文句を長い間知らなかったのはまことにうかつであった。
そこで思いついた。何故、「匂えどもその匂ひしらず」がないのか。「鼻」の存在を何故無視したのか疑問が湧いた。「大学」は孔子の遺書だが、戦国時代の斉魯の諸儒の作だとされている。孔子は紀元前550年から479年の人である。戦国時代は紀元前403年から221年である。日本ほど花に恵まれた国はないが、中国もまた花に強い思いを抱いている。花に霊が宿るとして「花神」「花仙」「花姑」の言葉がある。孔子でさえ「論語」で野辺の恋をたたえている。古代歌謡「にわざくらの花、ひらひらかえる。お前恋しいと思わぬでないが、家がそれ遠すぎて」に触れて、孔子は「思いつめていないのだ。まあ本当に思いつめさえすれば、何の遠いことがあるものか」と弟子にいったという(「論語」岩波文庫)。香りについて言えば、風に乗れば風香。水とともに流れれば水香。草木に染み込めば草香、木香。空を飛んでいる間に自然の香りに染まった鳥を鳥香という(王敏著「花が語る中国の心」中公新書)。萬葉集には「春の苑くれなゐにほふ桃の花した照る道に出で立つをとめ」(4139・大伴家持)があり、新古今和歌集には「散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く」(八條院高倉)などがある。江戸時代初期に僧隆達が「梅は匂ひよ 木立いらぬ 人は心よ 姿はいらぬ」と歌っている。匂いを無視したのは先哲の千慮の一失であろうか・・・ |