2005年(平成17年)1月1日号

No.274

銀座一丁目新聞

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追悼録(189)

大連二中の先輩を偲ぶ

  大連二中の光丘会(0Bの会)が解散したので、あらためて校友会誌「晨光」(昭和60年9月発刊・平成16年7月終刊全39号・特別号50周年記年号)を読んだ。特別号に「 草創期の母校」に座談会の中に次のような出席者の発言があった。松尾英夫(1回生)「坂井(安倍)連二郎、あれは惜しいことをした。戦死です」竹島春男(2回生)「俺と一緒に旅順で陸士に試験を受け、彼は合格したが、俺は一人息子ではねられ、おかげで生き残っている」。大連二中の名簿では安倍さんは「昭和15年9月13日華中新州戦死」とある。二中では最初の陸士合格者で最初の戦死者である、私が三年生の時である。調べると安倍さんは陸士44期生。昭和3年4月予科に入校(342名)している。陸士最後の卒業生を出した58期の予科入校生徒数は2300名に上るから採用者は七分の一の狭き門であった。44期の卒業は昭和7年7月である(315名)。卒業の直前4月には日清・日露戦争の戦跡見学のために満鮮戦跡旅行に出かけている。また5・15事件が起こり、10人の同期生が巻き込まれて退校(5月25日)、全員禁固4年の刑を受けた。生存者の一人は「5月15日日曜日の朝、外出の服装検査を終え市ヶ谷代の坂を下り再び帰ることのない校門を出た時の心境は」の問いに「何も考えていない。無心であった」と答えたという(桑原嶽著「市ヶ谷台に学んだ人々」より)。
安倍さんが戦死した昭和15年の中国戦線は全面紛争が始まってから3年余たち70万人の日本軍が派遣されていた。長期持久の態勢に移行したころで、占拠地地域では残敵の掃討、域内の治安粛正・警備・政治・経済・文化諸施策の実施促進を図っていた。戦死の時の階級は陸軍大尉で享年31歳であった。日中戦争の教訓は「日中再び戦うべからず」である。戦後2中の先輩、後輩は日中友好親善ためそれぞれに力を尽している。

(柳 路夫)

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