2005年(平成17年)1月1日号

No.274

銀座一丁目新聞

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自省抄(16)

池上三重子

  8月24日(旧暦7月9日)火曜日 快晴


 涼しくなったなあ。
 桐一葉落ちて天下の秋を知る、のはまだだが、猛暑の反動で案外その観を早々に持たさぬでもあるまい。
 虫の声、それもしぐれ様の音色ヲ昨夜来、早暁まで聴くことができた。形見とて何を残さんの心境よ。個人の微々たる形見よりなにより、自然はこんな贈物をととのえてあくせく暮らす人間を待っていてくれたのだ。
 蝉しぐれはともかく、虫しぐれまで喧し!煩し!とする人は私にとって異質?としか思えない。今朝、夜勤明けで退出した今村聖子士がその一人。離婚の母と部屋飼いの犬一匹とのアパート暮らし。時にそろってのみに出かけるのは特殊ではないにしても、すだく虫の音の哀れに拒否反応とはなあ・・・おそれ入谷の鬼子母神。
 しかしこれが人の世?これも人の世!
 イラクの戦争もこそぼの民族の殺し合いも、動物の自己防衛本能や攻撃性か!?
 人間よ!
 長い長い歳月をついやして磨き上げた英知を、カーン博士のように母胎の人間そのものまで、ねこそぎ核で滅亡させてよいものか!?
 英知世、英知の人々よ!
 こぞって立ち上がってくれないか・・・
 衝き上げてくるのは寂寥。この寂寥感は私の個を軸とする普遍性と思うのだが、潜在は無力だろうか、非力だろうか.個が衆となり、國となり世界となるのは単なる夢想出あろうか。
 夢想であろうと、私はその埋火を存在指せ続けるに違いない。

 佐伯三葉夫人はがんばっていらっしゃる。
 八月十六日、旦那様の新盆のお経上げはご子息方にまかせ、七月二十八日朝、咳とともに突然喀血、家人留守のため救急車を頼み友人に救いを求めバッグを持ってもらって入院、点滴中というペンの跡は書きやすいように縦、横、斜とあちこちの分かち
書きのハガキ。
 必死のしたため!?遺書になるかもの予感、予想が彷彿する。
 熱い信仰の対象はキリストと印象に濃い交流の歳月出あるが、独身のご子息と同居、他に男女各各、家庭持ちのお子もおありである。
 所詮は独りと、思い果たしか否か。それとも?しかし、このユイゴンめくはがきに窺えるのは生命のもつ現世への絆の強靱さだけ。旦那様の新盆にお坊さんのお経云々とあるところを見れば、お家自体は仏教いずれかの宗派か。
 速達ハガキで再度のお見舞い投函を先刻。
 どうぞ無事のお体でお読みいただけるよう!祈るばかり・・・・
 私にこんなお便りを下さる孤心を想うと切ない。
 やっぱりお気持ちは藁を持つかみたいのだ。
  夕立や草葉をつかむむら雀
 蕪村は詠んでいる。
 牡丹は花の貴種。蕪村は牡丹愛好家。が、この句に彼の愛隣の尋常ならざるを感じる。感覚がとらえプラスアルファあってこそ作品に昇華できようか。

 妙子先生のご来室遅れは杞憂であった。四十年ぶり帰郷の従姉さんのお相手役が先生に白羽の矢。不安と好奇心の日々とお便りにある。骨折?脳梗塞?脳内出血?私の不安はますばかり。例月よりわずか四日遅れというのに、私の不安材料は四方八方から飛来。とうとうハガキした。入れ違いに先生の便。
 私の性急は父似。嫌った父そっくりの性格を私の内に見る。うろたえ蟹の穴知らず、と母は笑った。
 チンちゃカン、ナベちゃっタ
反応の鋭さかくあれとの俚諺。チンと言われカンと反射的に応じ鍋、とあらばハイッとばかり蓋もそろえて!の意であったのである。
 こせこせ言うことすることのなかった自然態のまとう美。それが生命、母が生き形見と歳経るにつけ身にしみるようになった。あの含羞にじむ微笑の透明感を遺してくれた母・・・
 私の生ある限り母よ!あなたを讃えやまぬことでしょう。風樹の嘆と共有しつつ。
 今日も佳き一日でした。
 私の亡き人恋いは懺悔と慚愧と篤いあつい感謝のひざまつきです。と心の囁きをききながら・・・
 夢見にお待ちしますよね・・・・



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