2004年(平成16年)10月20日号

No.267

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追悼録(182)

榊原生徒隊長の20年祭法要

  陸軍予科士官学校の58期、59期、60期の生徒隊長を勤められた榊原主計大佐(陸士35期)の20年祭の墓前法要が執り行われた(10月14日・多磨霊園)。世話人は弁護士で生徒時代から榊原さんと縁のあった59期生の鹿野琢見君である。参列者は榊原さんの長男正明さんら遺族のほか58期生3人59期生3人60期生3人であった。墓前祭は乃木神社の禰宜さんが斎主を勤められた。玉串を捧げたあと、榊原さんのご冥福を祈って声高らかに陸軍士官学校校歌を合唱した。
 なおらいでは榊原さんの思い出話に花が咲いた。私にとって生徒隊長は雲の上の人であった。多くの同期生がそうであったと思う。同席した60期生の話では日曜外出で校門から大泉学園駅まで歩いていると馬上から生徒隊長が気安く声をかけ、榊原さんと話を したという。鹿野君は予科の12中隊一区隊で一緒であった水野義郎君が桑名出身ということで榊原さんをよく知っていたので、区隊の者数人で榊原さんの自宅に押しかけている。また鹿野君は戦後榊原さんに連れられて南先住の小塚原回向院にある2・26事件の刑死者、磯部浅一(陸士38期)の墓に詣でている。ともに80連隊(大邱)が原隊であった。2・26事件が起きると、榊原さんは陸軍省人事局課員となり、事件関係人事処理を担当したといういきさつもある。「磯部は立派な男だった」と誉めていたという。磯部の墓は夫人と一緒である。浅一 昭和12年8月19日歿 行年33歳 登美子 昭和16年3月13日歿 行年28歳とある。二人の結婚は磯部の隊付勤務の時、芸者に売られてきて二日目の夫人をかばったのが縁である。身請けの金は連隊長からの借金であった。
 墓前祭に出席した同期生の赤井英夫君はもし榊原さん生きていたならただ一つだけ質問があるという。それは南京虐殺事件のことである。実は榊原さんは昭和12年7月、上海派遣軍参謀となり、呉淞上陸から南京攻略までの戦場勤務に服している。東京裁判で中支那方面軍の司令官、松井石根大将は責任を一身に負って刑死された。榊原さん自身は画家、高畠華晃さんの質問に答えてその手紙の中で次のように言っている。「蒋介石中央軍 20万以下 当時の南京の人口 50万を越えることなし。 南京占領時 現存した人口(住民)約15万。私が管理した支那兵役15万。以上の計算で南京虐殺30万とか50万とか言う数字がいかに無稽の数字であるかおわかりいただけると思います」(「榊原主計」より)。同台経済懇話会の「近代日本戦争史」第3編によれば日中の資料を総合して南京防衛中国軍7万6000人中戦死約3万、生存約3万、撃滅処断約1万6000と分析し、第三国人の作ったスマイス調査によって一般市民の被害1万5760を上げている。これだと対象人員は約3万1760人になる。当時の南京防衛軍の兵力と南京の推定人口から見て6桁と言うことは考えられないとしている。妥当なところであろう。榊原さんも全く同意見であると思う。

(柳 路夫)

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