2004年(平成16年)9月10日号

No.263

銀座一丁目新聞

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追悼録(178)

落下傘部隊の先駆者は海軍である

  初めて仕えた毎日新聞社会部長の黒崎貞治郎さんには梅木三郎のペンネームで「空の神兵」という落下傘部隊の歌がある。各国に落下傘部隊の歌は27曲もあるそうだが、この歌が最も名曲だといわれている、作曲者は高木東六で、戦時中ながら、あえて「ジャズ調」に作曲したもので、高木さん自体「軍歌で音楽性のある歌はこれしかない」といっている。敗戦後日本に進駐したアメリカ軍にも愛され「軍国主義の日本にこんな優雅な軍歌が出来たのは不思議である」といったというが当然であろう。
 この歌は黒崎さんが昭和17年2月14日、陸軍落下傘部隊がスマトラ島のパレンパンに奇襲落下、製油施設の重要拠点の同地を占領した記事を見て書いた。実はその年の1月11日海軍の落下傘部隊がセレベス島のメナドに降りて成功している。陸軍より実に一ヶ月も早い。指揮官は堀内豊秋海軍大佐(海兵50期)である。このため大本営発表は海軍に花を持たせて海軍が2月14日午後5時で、陸軍は10分遅れの午後5時10分とした。大東亜戦争勃発時海兵50期は中佐であった。堀内中佐は昭和16年9月は横須賀第一特戦隊(落下傘部隊)司令であった。昭和18年11月、第3次ソロモン海戦で勇戦敢闘して艦と運命をともにした駆逐艦「夕立」の艦長の吉川潔中佐、沖縄の前川新一郎大佐など同期生二十三名が海や空で散華それぞれ少将に進級している。堀内大佐は不運の人であった。敗戦後オランダ側から戦犯として追及され、昭和22年2月19日メナドに移送された。その理由は「昭和17年1月から4月までのあいだ、部下が組織的暴虐行為をなしていること、もしくはなすであろうことを知り、または少なくともそれを当然推測したに違いないのに、部下の戦争犯罪の遂行を容認した」というものであった(岩川隆著「孤島の土となるとも」ーBC級戦犯裁判ーより)。もちろん堀内大佐には与り知らないことであった。昭和23年5月12日に死刑判決が下り、刑は9月15日に執行された。大佐は辞世を「白菊の香を残し死出の旅 つわもののあと われは追うなり」と読んだ。享年47歳であった。メナド裁判の起訴件数は44件、被告は59名.このうち31名が死刑を宣告され、特赦減刑の3名を除いて28名が死刑を執行された。苛酷なオランダ関係の裁判であった。この他同期生の法務死は第12特別根拠地隊副長島崎繁一大佐、元呉第二特別陸戦隊司令、牧内忠雄大佐の二名がいる。

(柳 路夫)

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