2004年(平成16年)9月10日号

No.263

銀座一丁目新聞

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自省抄(5)

「鉄道唱歌を最後まで歌えたお京ちゃん」

池上三重子

 7月20日(旧暦6月3日) 火曜日 快晴

 幸せなり
 幸せなり
 自祝いっぱいだ
 自祝いっぱいだ
 感謝いっぱいということ
 感謝いっぱいということは自祝プラス他祝もということ。つまり生の充実感。いのちまるごとの謐かな歓喜といえるのではないかな。
 寝たきり左右横転も出来ねば全介護の身にもかかわらず、来訪というかたちの精神的な介護をも享受できるとは・・・僥倖よと頭が垂れていく・・・
 今日は同僚同窓の五歳?くらいの下級生だった森信子先生が来室。野田直子先生という未知のお方を同伴。お話の中に高口京先生の北長柄町在と知る。お京ちゃんと呼びなれたあの同僚を家族までも知悉の一人とは。まったくご縁よ。
 お京ちゃんがアルツハイマーになるなぞ、どうして予想できたたろうか。が、現実はきびしく、初めて知る変わりようであった。
 ―お京ちゃん!ベランダで「汽笛一声」やら「夏は来ぬ」やら歌ったでしょ!
 ―知らんばんも
 ―写真帖に新しい写真を貼ったり、別の写真帖に移し替えたりしてくれたじゃない?
 ―知らんばんも
 答はみな柳川弁で知らないの一点張り。これが土曜日ごとに家にきて一緒に食事をし、何の屈託もなさそうに話しこみ、もうそろそろ帰ったほうがいいと促すまで腰を浮かそうとしなかったお京ちゃん? !?!!
 せっかくの土曜日だからみんな揃って夕餉の膳をかこんみたいのでは、と問えば、せっかくの土曜だからあたしの自由にさせてもらうとじゃん、と人の善さそうなあの笑顔であった。
 ご亭主は養嗣子.信用金庫勤め。学歴は高卒ながら頭脳優秀。お子たちニ男ニ女。ごくふつうの円満な家族構成なのにと、私には訝せぬ彼女の心象であった。
 ―飲まんかんも
 お京ちゃんは飲みかけのコップを私の方へ押した。
 あんた私の娘じゃんね。と側に立つ長女に念を押してながら再び私に顔をむけてジュースを勧める彼女であった。
 天草へ長女一家とともに訪ねてくれた彼女との最後の日のひとときが鮮やかに浮上する.定年後一年間の優遇措置が地方公務員に与えれていた。その後の発症であった。どうしてもちらほら耳に入る症状が信じられずに請うて得た貴重な再会は永別の一期一会となった。彼女はその後,ついに臥床の日常となり本年,入院中の病床六尺で幕を閉じた。軍歌「戦友」をまた「鉄道唱歌」を終節まで一語一句間違えず歌唱した彼女だった。厚くてたまらぬ日も寒さにおぞろげだつ日も「そげんなかばんも」と答える彼女だった。
 在職中の春休み夏休みの長期休暇には,いそいそと三泊四日して先記のような身辺の整理を自身の責務のようにも孜々とやってくれた彼女だった。
 お京ちゃんよ!
 あなたは異界のヒトになってしまった。
 今年は初盆!? そう新みたまなのね!! 八月は。
 私はつくづく業人.母が「ごうにん」といっていた宿業を負う手生きている意味のごうにんを自任しますよ。
 死は久しい通奏低音.にもかかわらず私は昨日も生き今日も生きているから明日もまたか、と呟くと同時にげんなり気が落ち肩が落ちる。
 にもかかわらず恰も何の悲しみも嘆きも知らないように時々刻々の生の気息にひっぱられでもするように清新溌剌、思惟も思惑もごちゃ混ぜに読んだり綴ったり閑中閑なく忙々の日常とは。
 母よ!
 このような一日も黄昏のいろが漂い始めました。夢見に今夜もお待ちしますね。



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