「週刊新潮」7月8日号が「下山事件」を取り上げた。タイトルは森達也が追う55年目の新証言とある。森さんは 最近、新潮社から「下山事件」を出版している。毎日新聞の社会部時代「下山事件」を取材、現場に一週間もいたこともあり、自殺がもっとも真実に近いと信じているので、他殺説主張する森さんの本を本屋の店先でパラパラとめくった程度で内容を読んでいない。何故自殺が真実に近いか明かにしたい。その前に「下山事件」とどんな事件であったのか説明する。昭和24年7月5日午前9時半、国鉄総裁下山定則さんは車の運転手に「5分間待ってくれ」と言い残して日本橋三越に入ったまま失踪、翌6日未明常磐線、東京都足立区五反野南町の線路上で礫死体となって発見された。死体を検案した八十島監察医はこの3年間に100体の礫死体を検案しているが、その豊富な経験から「他殺の疑い」はないものと判定した。だが、下山総裁は行政整理の一環として国鉄職員9万5千名の首切りに着手して、労働攻勢の矢面に立っている「時に人」である。「司法解剖は検事に一任する」と意見を述べた。遺体は東大の法医学教室で解剖された。解剖所見は「死後轢断」であった。つまり、よそで殺害したあと死体を運び線路上に置いたということである。この「死後轢断」が後々まで他説説の根拠となり55年後の今なお他殺説の虚説をはびこらせる。
しっかりと覚えて欲しい、犯罪捜査上、解剖所見は捜査に一つの資料を提供するにすぎない。「死後轢断」の裏付けを取るのが捜査である。裏付けがとれてその解剖所見が正しかったといえる。現場からは下山さんを運んだ車や拉致された痕跡を発見できなかった。むしろ下山さんが三越から五反野南町の現場まで単独行動をしていたという目撃者が多く出た。現場近くの旅館で5日午後2時から5時半まで休息した事実は決定的であった(毎日新聞が特種で報道した)。下山さんの現場での目撃者は5日の午後11時半頃までいる。死体が発見されたのは6日午前零時26分頃であるから空白が一時間ほどあるが、ともかく下山さんは単独で現場をうろついていた。自殺を覚悟していたとみられる。
たしかに法医学は科学である。間違えることもある。解剖所見が実際の捜査と食い違っていた例はよくある。下山事件でも解剖所見は間違っていた。その何よりの証拠は下山総裁を轢いた機関車に血痕が付着していた。しかもゼリー状であった。このようにゼリー状を呈する血液は生体からでた血に限る。死体からでたものでは凝固しない。この事実はあまり知られていない。
8月3日(昭和24年)警視庁が下山事件は自殺であるという捜査結果を発表しようとした時、連合国軍司令部(GHQ)が待ったをかけたことも米国立公文書館所蔵のGHQの極秘文書で明らかにされている(昭和61年2月25日公表)。当時、自殺説を報道した毎日新聞に対して「アカの手先」といわれ「科学を信じざるもの」と非難された。真実は一つしかない。それを忠実に報道したのが毎日新聞であった。 |