2004年(平成16年)2月10日号

No.242

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
お耳を拝借
山と私
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

 

追悼録(157)

日比谷公園で国葬が執行された

  勝田龍男著「重臣たちの昭和史」(下)には、西園寺公望の国葬が日比谷公園で行われたとある(昭和15年12月5日)。「木戸幸一日記」(下)によると、12月5日(木)ー「西園寺公国葬の日なれば、午前8時日比谷公園における国葬場に参入、葬儀に参列、さらに世田谷の墓所にいたり埋葬に列し、午後4時帰宅す。松平官長(康昌・秘書官長)と同行す」と記してある。葬儀委員長は近衛文麿首相であった。明治、大正、昭和の三代に日比谷公園で暦代の首相たちの葬儀が国葬で行われている。昭和15年といえば、私は大連2中の3年生で、陸士を目指す軍国少年であった。西園寺公の国葬は記憶にない。
 松本楼の社長小坂哲瑯さんから贈られた西島雄造著「日比谷松本楼の100年」には「歴代の首相らの国葬相次ぐ」の項目がある。明治42年11月4日伊藤博文の国葬では尾上菊五郎、梅幸、羽左衛門、吉右衛門といった当代の花形役者が燕尾服やフロックコート姿で勢ぞろいしている。大正5年12月17日の大山巌の国葬では日比谷公園は青竹の矢来と鯨幕に包まれる。両陛下の勅使をはじめ皇族の方々が参列された。軍楽隊は「哀の曲譜」を奏でる。大正11年1月17日大隈重信の葬儀では公園の式場には早大生1万5千人と女子大生が門内で黙礼を続けた。同年2月9日山縣有朋の国葬では「群集は刻々日比谷を取り巻いて交差点から内幸町の両側をギッシリ詰め寄せて押すな押すなの混雑だ」と新聞は伝える。昭和6年8月29日には東京駅で狙撃された浜口雄幸の民政党葬もあった。
「木戸日記」によると、西園寺公が死んだ昭和15年11月24日(日)には「午後9時54分西園寺公遂に薨去の旨報じ来る。嗚呼、国家の前途を思い真に感慨無量なり」翌25日は「御前10時20分より11時20分まで拝謁、西園寺公の薨去を悼ませられ、種々有り難き思召しを拝す、一時発にて興津に向ふ。3時50分静岡着、直ちに興津にいたり坐魚荘に入り、老公に拝訣す。八郎、公一氏、原田男等と御葬儀等のことにつき打ち合わせす。6時半、水口屋に入り、夕食後、8時半より10時半ごろまで御通夜をなす。水口屋に一泊す」とある。
 昭和天皇は西園寺公がよく口にした憲法擁護・国際協調の政治方針に深い信頼を寄せられた。特に「わが国の外交政策は英米との提携を基調とせざるべからず」の意見に共感しておられた。昭和天皇が木戸と西園寺公の思い出話を一時間もされるのは当然であろう。
 西園寺公がなくなってから一年にして日本は対米戦争に突入する。「重臣たちの・・・」の本の中に幣原喜重郎元外相が西園寺公の死を惜しみ、近衛を批判している文言がある。「もしわが政府当局は公の苦言を聞きて反省せしならむには、公にとっては盛大なる国葬よりも又幾万の弔辞よりも快く、安心して瞑目せられたるならむとしきりに思い浮かび、いまさら痛嘆にたえず候」(昭和15年11月)西園寺公もまた近衛に裏切られて「一体、どこに国を持ってゆくんだか、どうするんだが」と絶望しながら死んでいった。
 平成16年は戦後59年にあたる。この国は転換期にさしかかっている。憲法尊重は憲法改正に重点をおかれるようになり、国際協調は西園寺公の言うようにしっかりと米英に基軸を置くように求められている。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp