静かなる日々 ─
わが老々介護日誌─
(20)
星 瑠璃子
9月4日
猛烈な残暑が続いている。今年の暑さは暑いというのを通り越してどこか気狂いじみている。そのせいもあるのだろうか、母は朝からとても調子が悪い。4日間薬をやめていたせいかと、こわごわ朝昼に食後のメレリルを服用すると、一時よくなったかに見えた調子がますます悪くなった。「ヨレヨレ」あるいは「メロメロ」といった感じで、とても見ていられない。やっぱりだめだ。薬はやめよう。どんなにイライラと気持ちが悪そうでも、眠れなくても、副作用よりはましだ。「じつは我々もおっかなびっくりなのですよ」と医師は言っていたが、本当にこの
ての薬は恐い。
9月5日
薬の副作用がまだ続いている。午前中はだいたい調子がいいのだが、夕方になると、ズボンをお尻の下にずり下げただらしのない格好で、時には室内用の車椅子のかわりに食堂の椅子などをガタガタと押して家中を歩き回る。そんな姿を見ると、私はつい声を荒げてしまう。
「わざとしてるわけじゃないんですから、怒らないでね」
と、そのたびに母は哀しそうに言う。その通りだ。怒る方が悪いに決まっている。
「ごめんなさいね。お母様が悪いわけではないのよ。でもこっちだって人間なんだから、時にはカンシャクが起きることだってあるのよ」
私はあわてて謝って、自分の部屋に引き上げる。怒らないということのなんという難しさだろう。介護に適した人と適さない人があるそうだが、私は適さない人の部類なのだろうかと落ち込んでいると、幼なじみの書店主
I
君から頼んでおいた本が入ったとしゃがれ声の電話があり、ついでにあれこれおしゃべりをする。母上をホームに入れた彼は、その後すっかり体調を崩してしまったのだそうだ。身体はずいぶんラクになったし(奥さんに辛くあたる母上を人に任せず、殆ど男手一つで介護の重責を負っていたのだ)、風邪をひいたわけでもないのに、声が
出なくなってしまった、という。
私がついつい母に怒ってしまうとこぼすと、彼は問わず語りにこんな話をした。
ホームに入れる少し前、怒って母上のほっぺたをぶってしまったことが一度だけあった。頬はみるみる赤く腫れ上がった。と、母上はすかさず I
君を殴り返した。そしてそのあと、二人で抱き合って泣いてしまった。まるでテレビドラマのようだけれど、ほんとの話、と掠れた声で笑う。
9月7日
台風と秋雨前線が居座って、昨日から激しい雨が断続的に続いている。母は散歩にも行けず、きわめて調子が悪い。
夜の薬を飲まない日を一週間続けたせいか、昨夜はよほど眠れなかったらしく、夜中に何回も起き出して、朝食用のチーズ入りのパン、ケーゼ・ブロッチェンを三人分食べてしまった。そしてそれでも足りなかったのか、ほかに美味しそうなものがあるというのに、御飯にバターと牛乳をまぶして平らげたらしく、ミルクの箱だのバターのケースだのがひっくりかえっている。かてて加えてケンちゃんもお相伴をしたらしくすっかり下痢をしてしまい、お散歩まで待てずに庭に飛び出した。怒っても仕方がないがニコニコしてもいられない。母は私のそんな表情が気になるらしく、「この先長くはないのだから、我慢してね」などという。
S
病院のメレリルも効きすぎが恐く、またO先生の初期の安定剤に戻して、朝食後ソラナックスを一錠。しかし素人考えでこんなことを繰り返していていいのだろうか。やめようと決心しては、また薬にすがる。これでは悪循環ではないか。
9月8日
トースト、ミルクティー、フルーツサラダ、ヨーグルトといつもの朝食後、母はとつぜん不安定な様子になり、「どうしてていいかわからなーい。気持ちがわるーい」と例の赤ちゃん声で言いだした。あまりにも切なそうなので、またソラナックスを一錠。ちょっとの間「あーちゃーん(足立さんのこと)、こんにちわ、こんにちわ」などとヘンなことを言っていたが、まもなく穏やかになり、まあまあ平穏な一日を過ごす。
昼は冷たいきつねうどん、お三時に桃。夕食はウナギが食べたいというので鰻重をとり、食後のわらびもちまで美味しい美味しいと平らげる。
食後30分ほどぐっすり眠る。このところ夕食後に眠ることが多くなった。テレビはあまり見ない。新聞は読んでいるようだが、以前のようには読書をしない。スケッチは毎日続けている。
9月10日
足立さんが倒れてしまったので、目の回るような忙しさだった。しかし、母が骨折入院をしてすぐに雑誌の仕事などをすべてキャンセルしておいたのは正解だった。締切りのある原稿を抱えていたら、完全に共倒れだった。仕事を持ちながら在宅介護をしている人の苦労を思わずにはいられない。
山のような洗濯物を始末した後、G
病院の眼科へ。このところ目やにがひどく、目の周りもただれて苦しそうだったのだが、結膜炎のせいと分かり、目薬2種類。1週間後に結果を見てから視力なども調べることになった。
一度家へ戻り、トイレなどをすませて光が丘公園へ。車椅子を押して1時間の散歩。お腹がすいたというので園内の中華料理店へ入った。と、さっきまで機嫌がよかったのが嘘のように「寒い、寒い」と店の冷房を止めさせ、料理が運ばれてくると今度は「トイレ」という。連れて行って戻るとまた「トイレ」。クスリのせいだ、そうは分かっているのだが、また怒ってしまう。私も疲れているのかもしれない。 |