2003年(平成15年)9月10日号

No.227

銀座一丁目新聞

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追悼録(142)

 軍神若林東一大尉を偲ぶ

 同期生の開真君から「若林中尉の手記」が贈られてきた。若林さんは私達の先輩で大東亜戦争の際、ガダルカナル島で戦死された(昭和18年1月14日・31歳)。このような軍人もいたということで紹介したい。自国を軽蔑し誇りを持てない者は、国際的な場面でけして尊敬されないことをとくと知るべきである。
手記は若林中隊長がガ島見晴山を死守して戦死される一週間前までのものである。戦死を覚悟して、本部への伝令に託された貴重な記録でもある。陸士58期士官候補生14名(経理士官候補生を含む)は名古屋の歩兵135連隊に隊付勤務した(昭和18年11月から19年4月まで)。この連隊は歩兵6連隊、歩兵18連隊、歩兵228連隊などの補充隊もかねていた。このとき、隊付にきた58期生は歩兵228連隊若林中隊の少隊長であった望月仁美中尉(55期)から若林さんの奮戦振りを聞き、感動した。さらに望月中尉が若林さんの手記を持っているのを知り、同期生の一人が筆写した。その筆写したものが昭和58年11月第一冊を刷り平成12年1月までに第四冊が印刷されている。私の手元には軍神若林中隊長追悼録「後に続くものを信ず」(十全会編平成5年1月出版)もある。
若林大尉は52期歩兵科のトップで卒業、その名を挙げたのは、香港攻略戦である。昭和16年12月9日(開戦の翌日)の夜、歩兵228連隊の尖兵中隊長若林中尉が独断、九龍北方の敵陣地に潜入し城門貯水池南方の一高地を占領した。これがきっかけで日本軍は九竜半島全部を占領した。はじめは砲兵隊で徹底した破壊砲撃を行った後、突入占領の計画であった。若林中尉の独断で莫大な弾薬を浪費せずにすみ、爾後の作戦が有利に展開した。殊勲抜群の働きであった。いづれ陸軍を背負って立つ将校としてその将来が嘱望された。
若林大尉がガ島に赴いたのは昭和17年11月であった。すでに米軍の圧倒的な物量の前に戦いは苦戦を強いられていた。12月21日の日記には次のようにある。「衣食足って礼節を知る」上官も部下も軍人精神も この飢餓のどん底にありて 明確に正体をばくろす その期間短からず 利己心は遺憾なくあらわる 体裁もかききえて 何もかもさらけだすなり 階級もその観点よりして 何の価値なき遮蔽物なり 部下より上官をみれば それは明に白 日月のごとし
ガ島は飢島であった。
昭和18年1月1日の日記には竹内中尉(広一・13幹候)より一句「初春を祝ふ糧なき捷ち戦さ」予、作る「初春を見晴す山の勝戦さ」が紹介されている。
1月12日夜、負傷した若林中隊長は戦況報告とともに最後の別れを告げに大隊本部を訪れた。西山遼大隊長(38期)は再三治療のため後退するよう説得した。
若林中隊長は答えた。「私は部下とともに最後まで戦い抜き、見晴山を死守します.武人としての若林の一生は見晴山で終わります。しかし私も部下も、後に続く者を信じております。死してなお必勝を信じます」死ぬことはわかっていながら部下達が守っている陣地へ戻った。
私達59期性は昭和18年5月19日、陸軍予科士官学校の大講堂で58期生とともに大本営陸軍部報道部長、谷萩那華雄少将(29期)の講演「現戦局と我等の覚悟」ではじめて若林中隊長の戦死を知った。「後の続く者を信じます」の言葉は今なお、強烈な印象として残っている。戦後58年、若林さんの教訓は国のために与えられた任務を死んでも成し遂げるという気概と責任感である。山梨県南部朝の菩提寺常安寺に若林さんの歌碑がある。「何やらむよきこと待てる心地して 今宵も寝ねむ此穴掘りて」戦陣にあって、生死を越えてなおも前向きに生きんとする武人の姿が彷彿として浮かんでくる。

(柳 路夫)

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