2003年(平成15年)9月10日号

No.227

銀座一丁目新聞

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静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(13)
星 瑠璃子

 7月13日
 退院5日目。食欲は少しずつ出てきたが、相変わらずひとところにじっと落ち着いて居られない。いままで見たこともないようなイライラとトゲトゲしい表情で、寒いの暑いのと冷房を入れたり切ったり、寝室と居間の間を何十回となく往復している。
ときには車椅子を押すことも忘れて、よろよろとよろめき歩く。病院のリハビリ室では「立って ! 」と言われても立てず、「歩いて ! 」と指示されても歩こうとしなかったひとがである。これも入院ストレス症候群のひとつだろうか。忙しい仕事の合間に、殆ど一日おきに母の口に合いそうな料理を作っては宅急便で送ってくれる親友 K は、「ひと月経てばかならずお治りになるわ。父の場合もそうでした」と励ましてくれるけれど。

 7月14日
 朝5時前に犬の散歩。戻って庭の手入れ、ホースで勢いよく水撒きをすませてから、足立さんと母の着替えや洗面の世話。庭を眺めながら冷たいスープとミルクティー、フルーツサラダにトーストの朝食。少しずつではあるが、以前の「静かなる日々」が戻りつつある。来週には散歩にも出かけられるかもしれない。こんなにも早くこの日が来るとは思っていなかった。
 
 水底の青葉のしづく飲み干しぬ
 啼く鳥の声朗らかに青葉かな
 熱き床あえぎつつ臥す青葉まぼろし
 
 手術が無事に済んだのちも、暗澹たる思いを抱きつつ隣接する国有林を歩いた。病床の母を思ってその頃に作った句を読むと、病院での日々はつい昨日のようにも、またずっと昔のようにも思える。

 7月15日
 本田桂子『娘から父丹羽文雄へ贈る朗らか介護』を読む。
 この本は月刊「論座」2000年5月号から翌年の6月号までの連載が中心になっている。「中心に」というのは、著者の本田桂子さんが連載中に突然亡くなってしまったからで、11月に朝日新聞から出版された本を、著者はついに見ることがなかった。  
 本田さんには、その連載の始まる少し前に、パーティでお会いしたことがあった。小さい頃から理想の男性だったという作家の父上が突然アルツハイマー病になってしまったことを、そのとき初めて知った。
 ある日、執筆中(と桂子さんは思った)の父の背後から何気なくのぞくと、端然と机に向かった父は、丹羽文雄、丹羽文雄……とただ自分の名前だけを原稿用紙に書き連ねていたのだという。
 父親似の大きな目をした美しく華やかな人は、介護の苦労など少しも感じさせぬ明るさで、そのときの驚きを笑いながら語っていたが、やっぱりよほど辛かったのだろう。ほどなくして自らの介護体験を書きはじめた。それはちょうど介護保険制度が導入される時期に当たっていて、その不合理に突き当たったのも執筆の動機のひとつになったようだった。
 『朗らか介護』を読むと、排泄がままならなくなり、自宅での介護もここまでと、かねてより覚悟の施設に入れるのだが、ほんとうにそれでよかったのかどうかと悩みぬいて桂子さんは強度の不眠症になってしまう。それがようやく治ると今度はアル中。そしてどうやら元気を取り戻したかと思ったのもつかの間、嘘血性心疾患であっけなく亡くなってしまうのである。ホームにいる父はいまもそのことを知らない。以下はそういう痛ましい本からの抜粋である。
 「住み慣れた家で、最後まで暮らしていてほしかった。それができなかった。させてあげられなかった自分が腹立たしくて、頭のなかで、そんな思いがぐるぐると回っています。……往生際が悪いと、どんなに批判されてもかまわない。父を取り戻すことができるなら、なんでもする。かなり思い詰めていました」
 現在、施設介護の中心的なものとして知られるのは、特別養護老人ホームと老人保険施設、さらに療養型病床群と呼ばれる老人病院だ。本田さんが父上を預けたのは有料老人ホームだったが、さらに彼女は痴呆症の要介護のひとの面倒を見てくれる、グループホームという少人数の施設があることを知る。
 そこは自宅とまったく変わりない暮らしを提供することを目的に作られたアットホームな施設で、まだその数は少ないものの、自宅にいるのと同じような環境を整えることが出来、さらに一日の時間の使い方も自由という。本田さんは飛びつく思いで
この施設の研究に入り、父上の入所が決まった矢先に倒れたのだった。
 桂子さんの、死ぬほどに悩んだ悩みはよくわかる。私も、たとえ自分がどんなに大変であろうと、住み慣れた家で母が最後まで暮らせることを切実に願うものだ。けれども周りを見回すと、そういう人はむしろ少数派だ。老老介護の家庭で、「共倒れになってしまいますから」と、早々に親を施設に入れる例は少しも珍しいわけではない。高額の入居料を払ってそれが免罪符のように思っている人もいる。そこで私は、評論家の樋口恵子が言っていた言葉を思い出す。「親子の情というのは、親から子供へのベクトルと、子供から親へとはまるでちがうんだということをつくづく思っています。だから、それをカバーするために、昔は親孝行という道徳律がすごく厳しかった。親を亡くした人が慰められると『悲しい』というのもそうですが、『ホッとした思いもあります』なんて、日常会話で言うじゃないですか。子供にだったら絶対言わない」
(大熊一夫『ルポ老人病棟』のなかの座談会)

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