少年のまま、少女のまま年を取ったと自他ともに認めている人もいる。でも大方の人は年齢という枠組みの中で他人から幼稚さを悟られまいと、分別くさい顔をして年相応な生き方を強いられてはいないだろうか。
つい最近、フランスの女流劇作家ロレー・ベロンが1976年に発表し、その年のイプセン賞、トリスタン・ベルナール賞、翌年度の批評家協議会最優秀作品賞を受賞した「木曜日の女たち」(大間知靖子訳・演出)の舞台を見て、今まで何となくもやもやとしていたものが、薄紙を剥がすようにすっきりとして、ああこうゆうことだったのかと納得がいった。
舞台は、ソニアの住むあまり綺麗とはいえないアパートの一室。毎週木曜日の午後に、マリとエレーヌが訪ねて来て手作りのお菓子とお茶を楽しみ、おしゃべりをして過ごす。三人は幼馴染。マリはエレーヌの兄と結婚し二人の娘をもうけるが夫はガンで死亡。エレーヌは独身のまま。ソニアには二度の離婚暦があり、40歳になってもまだ親のスネをかじっている息子がひとり。
三人の話は尽きない。年金のこと、お墓のこと、ガンの告知のこと、こどもの躾のこと。時には大喧嘩をして母に叱られた子供の頃のこと、エレーヌが愛してやまない素敵なお兄さんを巡って繰り広げた少女時代の争奪戦のこと。でも過去の思い出話をするのではなく、三人は時空を超えてあっという間にその頃の自分に戻ってしまう。彼女たちは、なにもなりたくて分別くさい年寄りになったのではなく、歳月が容赦なく年をとらせたのであって中味はずっと少女のまま。
演出の大間知靖子さんは、プログラムの解説でこう語っている。「世間の人たちは外見と年齢で女を判断する、だから彼女たちは仕方なく年を取ったふりをしているだけ。でも本当はそれまでのあらゆる年齢の女が内在している、それがこの芝居の秘密であり、すべての女たちの秘密なのだ」と。
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