競馬徒然草(25)
−「寿(す)号」のその後−
「寿(す)号」という馬のその後に触れる。鳥取の佐伯牧場で8年間に約80頭の仔をもうけた後、隠岐島に渡る。佐伯牧場の佐伯友文が、隠岐の馬産事業を視察したとき、「寿号」を贈ることが決められた。隠岐の馬は馬格が小さかったため、馬匹改良に供することになったのだ。大正4年(1915)「寿号」は隠岐に移る。隠岐では渡辺諄三家で大切に扱われた。すでに18歳で、種牡馬としての盛期を過ぎていたが、なお10頭の仔をもうけた。
隠岐は島々から成っている。大きく分けると、東の円形状の島を道後(どうご)と呼び、西の知夫里島、中ノ島、西ノ島を島前(どうぜん)と呼ぶ。「寿号」が落ち着いたのは、島前の中ノ島である。承久の変(1221、承久3)によって、後鳥羽上皇が配流された島として知られる。この中ノ島の海士村(現在の海士町)で、「寿号」は晩年を過ごす。素封家の渡辺家は牧場も経営していたが、他の馬とともに牧場に放牧されることはなく、神馬としての扱いを受けたようだ。利口で温順な馬であり、渡辺家の馬房を訪れる村の人々から、「寿号さん、寿号さん」と、親しまれていたという。大正8年3月に病気となり、5月27日に23歳で天寿を全うする。
「寿号」の墓は、海士町の崎の小高い丘の上に建てられた。墓碑は楕円形の見事な自然石(高さ1メートル、幅70余センチ)で、中央に「名馬寿号之墓」と刻まれている。右後ろには、「水師営の棗(なつめ)の孫木」が植えられている。水師営といえば、乃木大将がステッセル将軍と会見し、「寿号」を贈られた場所である。そこに一本の棗(なつめ)の木があった。その棗(なつめ)の孫木が、どのような経緯で墓に植えられたのか、定かではない。ただ、「寿号」にとっては縁のある木であり、人々の配慮のほどが偲ばれる。そういえば、赤坂の乃木邸にも、「水師営の棗(なつめ)の孫木」が植えられている。それは、乃木大将とステッセル将軍と「寿号」を結ぶ、分かち難い木なのである。
墓碑は、遥か北のロシアの地に向けて建てられている。愛馬の霊が安らかに眠るようにと、故国を望む地に建てられた。「寿号」は、それほどに深い人々の想いをかけられた馬である。 (戸明 英一) |