2003年(平成15年)3月20日号

No.210

銀座一丁目新聞

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花ある風景(124)

並木 徹

 井上ひさしさんの芝居をみるたびに思う。「芝居見学」を中学生の正課にすべきである。下手な授業より教育効果があがると考えるのだが・・。井上ひさし作・鵜山仁演出「人間合格」(3月12日〜30日・紀伊国屋サザンシアター)にしてもその時代背景は勉強になる。今の20代の若者(昭和49年〜昭和58年生まれ)にとって、舞台が始まる昭和5年は43年から53年前もの昔の話である。この時代を「さてこの男が上京したころ農村はひどいありさま/作物は値が下がりたとえばキャベツ五つでタバコ一本/人買いたちは娘一人を120円で村から連れ去った/ちなみにこの男は月に80円の仕送りを受けていた」と説明する。今の中学生に人身売買が理解できるか疑問である。
 東北地方は冷害と不況で娘の身売りがしばしば行われた。米価は昭和2年一石34円であったものが昭和5年には16円に下落。輸出品の王座を占めていた生糸が世界恐慌で、その価格が前年の半額以下に暴落、農家の窮状は目をおおう。大地主の息子であった太宰治こと津島修治(大高洋夫)の仕送り80円とは恵まれている。この頃、事務員の月給は20円から50円、女工の日給は50銭から70銭の時代である。
 「また この時代治安維持法という法律があった/たとえば『ひとはみな同じ』そう思うだけでも非国民とみなされた/この法律によって捕まった日本人は7万6000名にもおよぶ」友人、佐藤浩蔵(梨本謙次郎)は共産党員であった。
 大正14年4月にできた治安維持法は、昭和20年10月占領軍覚書で廃止されるまで思想、言論の自由を統制するのに用いられた。昭和5年2月、日共など左派1500人検挙。昭和6年4月、関西共産党500余人検挙。昭和8年1月、経済学者河上肇検挙。5月、京大滝川事件起きる。この法律は天下の悪法で次第に自由主義、民主主義思想の取締りまで広がった。
 「ここに太平洋戦争が始まったころの統計がある/その統計ではアメリカの鉄の生産高は日本の八倍/自動車の生産高は日本の800倍国民所得は日本の18倍である」別の数字もある。たとえば石油は500対1、石炭は10対1、鋼鉄は20対1であった。
敗戦。友人の山田定一(松田洋治)はいう。「8月15日まで、軍事劇を得意然とやっていた人が、8月15日以後はGIをたたえる芝居を売り物にする。そういう人間の主宰する一座にこれ以上とどまりたくない・・・」
 修治の言葉。「天皇、天皇と、うるさく奉っておいて、マッカーサーがくりゃポイだ。あんまりかわいそうじゃないか。あれほど信じていたのなら世の中が変ろうが変るまいが、あのお方を大切にしつづけろ。今こそ天皇陛下万歳を三唱しろ」
 中北芳吉(すまいけい)の弁解。「しかし、誰も彼も、その苦しみを家庭というものに支えられて、しのいでいるのです。『家庭円満、女房や子供と一緒に、お汁粉万歳』これですね。これが私の、根本的なイデオロギーです」この5年間に二つの大病を克服して、達者な演技を見せるすまいけいには脱帽する。
終始変らなかったのは佐藤だけ。15年間、命を張って頑張ってきた。
 筆者は戦時中軍の学校に学び、戦後は新聞記者になった。思想的には左側を歩るいてきたが、「われらを股肱と、のたまいた」昭和天皇を敬愛し、社会部記者時代、お后取材班の一員であったので、陛下と美智子妃殿下には人一倍親近感をもつ。是々非々主義の恥多い人生である。それぞれにこの芝居から自分の身を振り返り人生の糧とすればよいとつくづく思う。

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