2003年(平成15年)2月20日号

No.207

銀座一丁目新聞

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追悼録(122)

 大連2中の友人瀬川浩二君(17回生・昭和18年2月卒業)が靖国神社にお参りに行くのは亡くなった友人たちにあうためであると会報に書いている。戦時中陸軍士官学校に学んだ筆者が靖国神社に参詣すのは当たり前である。2月15日も靖国神社境内で「国立追悼施設建設反対署名運動」を陸士の仲間3人とした。18歳の受験生から84歳の男性まで200余名が快く応じてくれた。瀬川君の親友であった板橋敏幸君(筆者の剣道部の仲間)が関東軍に応召され、ソ満国境に送られたまま今なお消息がわからない。一緒に応召した磯口勝美君、有ヶ谷芳君は敗戦時にソ連に抑留され、間もなく、収容所で死んだと伝えられている。大連2中の名簿にはこの3人の欄は空白のままである。
 先輩の人たちの名簿を見ると、5回生に昭和20年、「シベリア戦死」という記述がある。おそらく抑留中になくなられたのであろう。遺族の思いがにじみ出ている。8回生の二人が昭和21年1月23日ハバロフスク近郊とクラスノヤルスクでそれぞれ死んでいる。ソ連に抑留され帰国された人たちの話によれば抑留1、2年の間に飢え、アメーバー赤痢、発疹チフス、厳寒のために多くの犠牲者が出たという。
 名簿(1999年版)で、2中出身者の戦死者(戦病死を含む)を調べると110名にのぼる。もちろん、各回とも空欄の人たちが多いので、その数はもっと多くなると思う。敗戦で大連2中がなくなり、家族も離散、復員、引き揚げなどのため資料、情報不足などで名簿が不完全であるのは仕方あるまい。単に「戦死」とある方は42人にもなり、何時、どこで、どのように戦死されたか書かれていない。
 7回生堀井正一さんは昭和18年5月、アッツ島で、13回生三隅哲夫さんは昭和20年3月17日、硫黄島でそれぞれ玉砕されている。12回生手塚和夫さんは昭和20年4月12日、沖縄で特攻戦死。同級生の馬屋原博さん(昭和20年6月20日)も、13回生の伊東信夫さん(昭和20年4月3日)も沖縄で戦死しておられる。12回生、落合正文さんには「昭和48年10月9日、ガダルカナル島戦死判明日」との記述がある。昭和18年2月、ガ島は戦死者2万5千を出して撤退している。ガ島は『飢えの島』であり、『人肉売買』の噂もでている。『強いものが多く食った。多く食った者が生きた』地獄の世界であった。戦死の場所はフィリピン(11人)中国、北満(それぞれ8人)南方海上(7人)ニューギニア(6人)ビルマ(5人)などとなっている。戦病死も15人を数える。
国のため、家族のため戦死された先輩諸兄の記録を空白のままにしておくわけにはいかない。各回の幹事と連絡してできるだけ空白を埋める努力をしたい。

(柳 路夫)

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