2003年(平成15年)2月1日号

No.205

銀座一丁目新聞

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花ある風景(119)

 並木 徹

 子供の時から粗食に甘んじてきたので、食べ物に好き嫌いはない。まずいと思っても戦時中のもののない時を考えていただく。私よりもっとひどい境遇に置かれた人々がいっぱいいる。
 たとえば、昭和20年8月の敗戦時のソ連抑留者たちである。内村剛介著「生き急ぐ」−スターリン獄の日本人ー(講談社文芸文庫)にすさまじい事が書いてある。一日分のパンの量は550グラムこれを朝、150グラム、昼、夜200グラムづつにわけてたべる。金属のナイフで切るとパンがナイフにべっとりとつくので、シャツのほころびから糸を抜き出して丹念によった細ひもを使う。
150グラムのパンを二十六等分にちいさく細分する。「なぜ?何故ってわかりきっているではないか。小さく切ればきるほどゆっくり味わえる。一つ一つ口に入れてゆけばそれだけ味わう回数も多く、味わう時間も増える勘定になる。量が足りないから、その不足を時間で補えばよい・・・」飽食の時代、このような状況は想像に絶するであろう。
 同期生の一人、高野晴彦君は満州で操縦の訓練中、ソ連に抑留されたが、その著書「凍寒(マローズ)に歌う」ー士官候補生のシベリヤ抑留記―に書く。「配給量が絶対的に少ないために、食事に係わる醜い争いが後を絶たなかった。『運搬途中に後ろの者が飯缶の中に手を突っ込んで飯を食べた』『黒パン配分に大小があった』『パンのきり屑を隠した』「スープの実が少なかった』とかまるで餓鬼の世界であった」
 食べ物がないということは人間を餓鬼の世界に追いやる。学歴とか地位とかは全く関係がない。人間の虚飾を遠慮なくはいでゆく。動物になってしまう。苦境にあってなお人間としての矜持を保つことのできるものはリーダーの資格を持つといえる。
 内村剛介さん(ハルピン学院21期生・関東軍通訳)は昭和20年12月末、満州・延吉の捕虜収容所から先輩の満州国外交部事務官、梶浦智吉さん(学院12期生)と共に釈放されたが、梶浦さんがチブスのため歩行困難となり、梶浦さんに付き添い、収容所にもどり、ふたりともまた捕虜となってしまった。付き添わなければ、そのまま無事日本に帰国できた。それを「病気の先輩を見捨ててゆくわけにはいかない」と戻った。誰にも出来ることではない。昭和31年12月の最後の帰国船で舞鶴に上陸する。実に11年間も抑留された。立派な人である。つい最近、内村さんが大連2中の15回生で、私の先輩であるのを知った。

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