2003年(平成15年)1月20日号

No.204

銀座一丁目新聞

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追悼録(119)

 村上兵衛著『陸士よもやま物語』(光人社・昭和60年8月発行〕をあらてめて読見直す。友人と戦術教官、親泊朝省少佐(陸士37期)の宿直室を尋ねて話を聞いたくだりが出てくる。親泊少佐はガダルカナルで師団参謀として戦い、撤退作戦を指導した後、昭和18年3月、士官学校の戦術教官として赴任してきたのであった。「ものすごい戦だよ。これまでの戦術の常識を遥かに超えた敵の物量・・・。が島は餓島だ。全軍うえとる。若い現役兵でも、幽霊のようにやせさればえてとる」「が島では人肉が飯盒一杯10円で売り買いされとる。敵の肉か?味方の肉か?それは想像にまかせる・・・・」ショックな話である。
親泊少佐はガ島を去るとき歌を読んでいる。

 大君のみ光あれば/このいくさ/必ず勝たん/勝たでおくべき

 昨年の夏、筆者はこんな俳句を作った。

     夏草よ餓島の戦忘れしか

 村上さんは、初めて死を自分に擬し、死の意味を考えたそうである。親泊少佐は敗戦のとき、大本営参謀であった。敗戦の責任を負い、日本が降伏文書に調印した昭和20年9月2日、9歳と7歳の子供、妻と共に自刃した。
 兵科決定の話が出てくる。『兵科配分の決定にあたって、区隊長の最大のナヤミは輜重兵の指名だった。その志願者は、まず絶対にない。これを押し付けると、生涯恨まれる』とある。筆者の場合、なんと、区隊長がナヤム輜重兵を希望した。昭和19年2月に兵科希望書提出を命ぜられて第一志望、輜重、第二志望、航空、第三志望、歩兵と書いた。区隊長に呼び出され輜重を第一志望とした理由を聞かれた。答えた。『大東亜戦争は補給戦であります。私みたいな優秀な男が一人ぐらい輜重にいってもよいではありませんか」「バカいうな。貴様が優秀なのは歴史と中国語だけだ。書き直せ」と命ぜられた。仕方なく、航空、歩兵、輜重とした。この話を聞いた同期生の一人から「航空決戦のとき、貴様は軟弱だ」と切磋された。結局は歩兵になった。
 この本を読む限り、57期の村上さんは優秀な士官候補生であった。とりわけ、戦術の成績が抜群なのには敬服する。筆者などは戦術といえば「決心攻撃、矢(攻撃の重点)は左」の言葉しか覚えていない。敗戦のとき、村上さんは陸軍予科士官学校の区隊長であった。筆者達59期生の歩兵は富士山麓で卒業前の野営演習中であった。
 戦後、戦中派の旗手として文壇で活躍を見せた村上さんは1月6日亡くなった。享年79歳であった。

(柳 路夫)

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