1999年(平成11年)2月20日

No.66

銀座一丁目新聞

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りんご

otake.jpg (8731 バイト)大竹 洋子

監督・原案 サミラ・マフマルバフ
製 作 イラジュ・サルバズ
脚本・編集 モフセン・マフマルバフ
撮 影 エブラヒム・ガフリ
配 給 フランス映画社
出 演 マスメ・ナデリー、ザーラ・ナデリー、ゴルバナリ・ナデリー、
アジセ・モハマディ、ザーラ・サグリサズ

1998年/イラン映画/カラー/ヴィスタ/85分

 世界で最年少の女性監督サミラ・マフマルバフは、1980年2月にテヘランで生まれた。父は社会派監督として高名なモフセン・マフマルバフである。私がイランの映画を最初に意識してみたのが、父マフマルバフの「サイクリスト」だった。妻の治療費を稼ぐために、一晩中自転車をこぎつづける男の話で、とても感動した。そして、それから沢山のイラン映画をみたのだが、どの作品にもあまり感情移入ができなかった。

 子どもを主人公においた作品が多いのは、テーマに社会的制約があるからだろうか。その子どもたちが実に健気で可愛いだけに余計困ってしまう。しかも、物語は常に大人の視点で語られるから、正直にいって、またか、という気分が生じてくる。こうして、イランの映画から気持ちが離れて久しかった。しかし18歳の少女、サミラ・マフマルバフが監督した「りんご」には新鮮な輝きがあって、なんだか魅力があるなあ、という思いがしきりにしたのである。

 これは実話に基づいたドキュメンタリー・ドラマである。テヘランの貧しい地区に住む一家の父親には、目の見えない移民の妻と、12歳の双子の娘がいる。父は生まれるとすぐに娘二人を家に閉じこめ、仕事に出かける時は扉に鍵をかけたから、姉妹は外の空気というものに一度も触れることがないまま育った。

 この監禁状態にある姉妹についての手紙が、社会福祉事務所に届いた。一家を気遣う隣人たちからの投書だった。一人の女性ソーシャル・ワーカーが調査に乗り出すところから映画は始まる。どうして自分たちにかまうのか、放っておいてくれという父を、彼女は再三再四説得する。やがて父は折れ、少女たちが家の外に出る日がきた――。

 双子の姉妹は名をマスメとザーラという。12歳とはいえ、人前に出る二人は黒いベールをかぶらなければならない。出演者はそろって本人自身である。言葉はろれつがまわらないし、まるで中国の纏足の女性のように、足許はおぼつかない。フラフラと歩きながら、程なく二人は友だちというものに出会うことになる。道でケンケンをしていた同じ年頃の姉妹が、一緒に遊ぼうといってくれたのである。双子のほうは他人に接したことがないので、自分の感情をどう表現すればよいか判らない。ゲームに加わりながら、嬉しさのあまり相手の顔をぶってしまう。頬をおさえながら、「遊んであげているのに、どうしてぶつの?」と口をとがらかす姉の少女が本当に可愛い。でも彼女はすぐに気をとりなおして、あれこれお節介をやく。二人がおかれた特異な立場など知る由もないから、見当違いのことをいったり、したりする。

 そうしているうちに、双子は姉娘がはめている腕時計が欲しくなった。彼女は一緒に買いにゆこうといい、電車の音がする時計も売っているのよ、と教えてくれる。四人の少女が玩具の時計屋に出かけるシーンはなんとも愉快である。店の小父さんは、電車の音がする時計なんてないという。そのとき、頭上のガードレールのうえをゴーッと電車が通り過ぎる。この前も電車が通ったのだろう、と小父さんはこともなげにいい、少女たちは素直に納得する。私は声を上げて笑ってしまった。

 サミラ・マフマルバフ監督は、「通りというものが、社会で生活してゆくうえでどんなに大切かということ、そして男の子なら通りで自由に遊べるのに、女の子にはなぜ許されないのかを問題にしたかった」と述べている。彼女の矛先は、娘たちを閉じこめた両親にも、長いあいだ一家を放置した隣人たちにも向けられる。

 脚本と編集を父が受け持ったことで、このユニークな作品をつくった少女の実力が疑われてしまったことを残念に思う。そして、“りんご”という禁断の木の実を題名にしたこの映画が、一つの寓話として片付けられてしまうなら、それもまた残念である。今年19歳になった彼女の将来を、私は大いに期待する。イラン社会に対して、とりわけベールの陰のイラン女性に対して私たちが抱く疑問の数々を、彼女ならきっと取り除いてくれるに違いないと思うからである。

今月26日まで、日比谷シャンテ・シネ(03−3591−1511)で上映

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