|
小さな個人美術館の旅(60) 秋野不矩美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 「新幹線が浜名湖に差し掛ると、私は思わず車窓はるか北方にうち重なる山々の陰に天龍を思う。」 日本画家、秋野不矩(ふく)さんは、故郷についての文章をそんなふうに書き初めている。(『バウルの歌』) 秋野さんがインドで描いた神々しいばかりに美しい「渡河」という作品を見てから、新幹線に乗るたびに、私もまだ見ぬ天竜を思うようになった。その天竜に市立秋野不矩美術館が出来たのは昨年、1998年春のことだった。 東京から天竜へは二つの行きかたがある。掛川で天竜浜名湖線に乗り換えるか、浜松から遠州鉄道で行くかだ。時刻表の小さな地図をためつすがめつしたあげく、私は掛川で下りることにした。 天竜浜名湖線は、いまどきめずらしい一両編成(?)ののんびり電車。単線をゴトゴトと超低速で走り、駅舎もないような小さな町や村を過ぎてゆく。たまに少し大きめの駅があると、そこには「鬼灯(ほおずき)市きらめきて雨通りけり」だの「山河佳し陶房出でて新茶の香」などとほどよい板に達筆で書かれた俳句がいつも掛かっていた。 「陶房出でて」の句は「遠州森」という駅(森だなんていい地名だなあ)の句で、近くに遠州焼きの窯場があると運転手から聞いた。そこはなんと八分停車の駅で、四人の乗客のうち二人の女性は「チョットお手洗いに」と電車を下りてどこかに行ってしまい、私は車掌もかねる運転手と長々とおしゃべりをしたのである。この電車が戦前の昭和15年にできたこと。戦時中は海の方を走る東海道線が爆撃された場合の物資の輸送に役立ったこと。十年前に廃線となるところを第三セクターとして生き残ったこと。「森」の次郎柿は甘くてとても美味しいこと。三つ先の「敷地(しきじ)」にも柿の里があるが、そこのは渋柿でころ柿にすることなどを聞いたのは、ホームで一服しながらの立ち話である。見上げれば空にはうっすらと刷毛ではいたような白い雲が浮かび、コートを脱いでも汗ばむようなのどかな小春日和。ああ、この電車に乗ってよかったな、と私はしみじみ思った。東京では考えられないような、懐かしくゆったりとした時間が流れてゆく。 天竜二股駅で下りて十五分も歩くと、小高い丘の上に美術館があった。 枯れ色の崖の中腹から頂きへかけて、青い空を鋭角に切り取るこけら葺きの屋根がまず見え、それを支える円柱や、小さな窓を開けた土色のしっくいの壁面などが次々と現れて来る。美術館への道はゆるやかにカーブを描く上り坂なので、建物はさまざまの角度で現れるのだが、そのユニークさ。木の色と土の色と、それらがつくるさまざまな線や面の美しさ。えもいわれぬハーモニー。私は夢中になってカメラのシャッターを切った。北海道から沖縄まで個人美術館を回っているが、ここは最も美しい建物の一つといえるのではなかろうか。藤森照信氏の設計は、美しいばかりでなく他のどこにも似ていない。思い出すものといったら、インドの田舎で見た民家くらいだ。中に入るまでに私はすっかり興奮してしまった。
内部についてはもういちいち書いているひまがない。靴を脱いで上がり、展示室に入るにはスリッパも脱ぐ。常設展のための一階は大きく二つの展示室に分かれ、藤を敷きつめた細長い部屋には初期の作品が、うっすらとピンク味を帯びた大理石と石の床の大きな展示室にはインド作品のいずれも大作が並べられていた。 「ちょっと足が冷たいですね」 「床暖房をしているのですがね。なにしろこの辺りの夏は暑くて、四十度になることもあるんです」 と、学芸員の一花(いっか)義広さんが言う。そうか、ここはやっぱりインドに似ているのだ。真夏にこの床はどんなにひんやりと気持ちがいいことだろう。インドのあの過酷な暑さを思い出しながら、その地で、まるで故郷にいるように自然に生き、描いた秋野さんの心境がほんの少し分かった気がした。 「インドへの道」と題された展観は、期待にたがわぬ見ごたえである。お目当ての「渡河」は今回の展示にはなかったけれど、「少年群像」や「青年立像」など、秋野さんを秋野さんたらしめた初期の記念碑的作品から、秋野さんを捉えて虜にしたインドの作品群が、緊密な構成で並べられている。 秋野さんが初めてインドに渡ったのは京都市芸大助教授だった1961年のこと。タゴールが創設したビスババーラティ大学へ交換教授として赴任したのである。 「英語もろくにできないし、インドのことなど何もしらない自分が、なぜインドと聞いて行く気になったのか不思議です」 と後に語っているが、一年間の滞在の後も憑かれたようにインド行きを繰り返し、85年の大阪を立ち上がりに京都、東京などを巡回した「女流画家インドを描く――秋野不矩展」では毎日芸術賞、91年には国の文化功労者に選ばれ、92年から93年にかけての「秋野不矩インド展」では日本芸術大賞を受賞するのである。 何がそれほどまで秋野さんをインドに魅きつけたのかと思うのだが、画家は淡々と「インドの村の風景は親しみ深くて、親類の家に来たような感じ」とか「インドの土は黄色。私は黄色が好きで」と言うばかりだ(共同通信94・4・18)。暑さも、貧しさも不潔さも秋野さんにとってはどうということもなく、土地の人とともに暮らし、あの黄金色に輝く大地や夕日や、スコールの後に泥水となって流れる黄褐色の河を描き尽くすのである。私の好きな「渡河」はそこを渡ってゆく牛の群れを描いたものだが、その世界はまことに「永遠なるものの魅力」(大岡信)に満ち満ちていた。
美術館を出て、人のいない白っぽい町を抜け、長いトンネルをくぐると天竜川に出た。満々と水をたたえた大河は空の色を映して青く、下流でゆったりと蛇行しながら波頭を冬の腸にきらめかせている。美術館からここまで四十分もかかっただろうか。「歩いて行くんですか」と一花さんにも驚かれた道のりだったが、師範の二部を出て小学校に奉職した頃の秋野さんは、週末ごとにこの川ぞいの道を三里、片道三時間かけて通ったのである。天竜の山すその細道はまことに秋野さんにふさわしかったが、新米教師にとって一週間の授業はあまりに情けなく、家に帰ると物陰でそっと泣いていた。そんな秋野さんを見て両親は、「やっぱり、ふくは絵を描くのが性にあっているから」と小学校を辞職させた。それが画家秋野不矩の出発となった。 1908年、天竜の貧しい神官の子として生まれ、同業の画家と結婚して次々と生まれる六人のこどもを育てながら描き、五十四歳でインドに渡り、それからはインド行きを繰り返しながら、いまも制作ざんまいの日々を過ごしているという今年九十一歳の秋野さん。秋野不矩美術館への来館者は開館から十ヵ月たらずで十万人を越したという。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |