2002年(平成14年)12月1日号

No.199

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
ある教師の独り言
GINZA点描
横浜便り
お耳を拝借
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

茶説

国民の知る権利を考える

牧念人 悠々

 新聞記者時代、「国民の知る権利に答える」を念頭において取材してきた。昨今その権利のあり方が様変わりしてきたように思える。その傾向が拉致問題取材に顕著に表れている。横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンさんや曾我ひとみさんの家族へのインタービュー記事に対する被害者家族や支援者らの反発が極めて強い。前号(11月20日号)でも取り上げ、記事に対する批判は取材原則に照らして的外れであると主張した。
 今回は「国民の知る権利」から論じてみたい。この権利は本来は「報道の自由」を支えるものである。公共の事に関して国民が判断を迷わないために的確な情報を知る権利である。新聞は政治、経済、社会を問わず、情報を伝え、国民が判断し行動できるようにしなければいけない。そのために「報道」「解説」「評論」の機能を持っている。新聞は民主主義にとって不可欠な存在である。政治がらみのスキャンダルを報道するのは、国民に判断材料を提供するためである。新聞社は私企業であるが、公共のために尽くしているという意味で「公共性」をもっているといえる。
 このような立場からインタービュー記事に対する批判を検討してみる。

 1、北朝鮮の宣伝に乗せられている。本人達が本当の事を言えるはずがない。この点については取材者側は十分承知している。そのうえでのインタービューである。多くの読者は理解していると思う。
 2、家族の人権の侵害である。家族の感情を考えない心ない報道である。これまでの事件報道はあまり被害者家族の人権を考えてこなかった。桶川のストーカー事件以来配慮するようになってきた。今回の場合はどうか。曾我ひとみさんは「怒っている」と表現したと伝えられている。これに対して「週間金曜日」の黒川宣之編集主幹は「お互いの気持ちを伝えられない不幸な状況を作ったことが問題。曽我さんが動揺したなら、ではどうしたらいいのかを考えるべきだ」と発言している(11月15日毎日新聞)。
 「表現の自由」も人権である。これは憲法21条にある。前号では「肉親にとって聞きにくい質問をしている。これは多くの読者が一番知りたい質問である。肉親の情に配慮して質問を省略するか、多くの読者の知る権利に答える質問するか、答えは自ずと出る」と書いた。つまり、新聞の公共性に軍配を上げたのである。ところが、大阪大学大学院教授松井茂記さんは第5回記者研修会(8月30日)の「報道の自由をめぐる社会環境の変化」という講演の中できわめて注目すべき発言をしている。「マスメデアの表現の自由も個人の人権等のために必要な制約はやむえないという考え方をむしろ前面に出す人が多くなってきている」「マスメデアは人権を侵害する加害者だと考えている」「マスメデアの表現の自由・報道の自由を国民の知る権利にどれだけ仕えるかによってしか評価しない傾向である」などと述べている。公共の利益と個人の人権のどちらが大切かと問われた場合、今は個人の人権が大切だというのである。筆者はあくまでも公共の利益が優先すると主張したい。そうでなければ民主主義が崩壊してしまうと思う。今の時代はどうやら、個人にとって『報道の自由』よりは新聞がいかに個人の『知る権利』に肩入れするかを期待するようになってきたのである。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp