詩人、三好達治はこんな事を言っている。「声を聞けばその人の心の状態も道徳観もわかる」。三好の感性は鋭い。怖いぐらいである。声を聞けば、機嫌がよいか不機嫌かぐらいは私にもすぐにわかる。ともかく声を爽やかに保つため朝のうがいだけは欠かさない。心の動きは、表情に、動作に、全ての芸術作品に表れる。
三好の詩。「ふたつなき祖国のためと/ふたつなき命のみかは/妻も子もうからもすてて/いでましいかの兵(つは)ものは つゆほども/かへる日をたのみたまはでありけらし/はるばると海山こえて/げに/還る日もなくいでましし/かのつはものは・・・・」(「おんたまを故山に迎ふ」と題する詩はあと23行も続く・「艸千里」昭和15年6月、創元社刊)日中戦争のさなかである。「しるしばかりのおん骨」で帰還した兵をともらう。しみじみとその戦死を悼む。
三好は三高から東大仏文に進む。昭和3年の卒業は小林秀雄、中島健蔵、今日出海らと一緒であった。実は三好は、始め軍人の道を志した。名古屋幼年学校から陸士に進み(大正8年)、工兵第19大隊(会寧)の士官候補生であった(陸士33期)。陸士を中退した。同期生には戦時中、少年達がよく読んだ「大義」の著者、杉本五郎、2・26事件に連座した山口一太郎がいる。
三好の第一詩集「測量船」(昭和5年12月第一書房刊)に安西冬衛にと記して「雉」の詩がのっている。安西冬衛は「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていつた」で著名である。この二人は殆ど同年代で、三好の方が7ヶ月先に生まれている。安西が大正13年11月、大連で創刊した雑誌「亜」に三好は昭和2年7月、同人として参加している。その後も交友は続く。
戦前、三好は多くの戦争詩を作っている。当然であろう。同期生の島貫忠正はノモンハン事変に参加して空中戦で戦死、藤田雄蔵、杉本五郎も戦死している。他の同期生もそれぞれ軍の要職にあって戦いに参加している。自然詩人も戦争の埒外にいるわけにはいかない。その詩は抑揚がきいて、選び抜かれた言葉は人々に訴えるものがある。「もののふはよものいくさを/たたかはすときとはいへど/そらにみつやまとのくにに/をとめらのことのねたつな」(ことねたつな)
三好の詩について「デビユーのときから骨組みがしっかりして、端正で形の整っていることを特色としていた。その性格、精神がきわめて日本人的、それも古風な日本人の風格を多分に具えている」と河盛好蔵さんは解説する(「三好達治詩集」新潮文庫)。難しい言葉を使わず、平易である。それでいてずばり本質をつき、風雅に歌う。品格が備わっている。
三好は俳句もよくした。「ひとときは木枯ちかき膝枕」。晩年、俳句を作ることを最も愛したらしい。昭和39年4月、亡くなった。享年63歳であった。
(柳 路夫) |