まだテレビもパソコンもない子供時代を過ごした者は、ラジオや書物によって知識を取り入れた。今のように居ながらにしてこれでもかとばかり情報が入ってくる時代と違って、分からない事柄も多く、それゆえか、先ず自分でとことん考えてみて、それでも分からないことは聞いたり調べたりするという探究心や想像力が豊かであったような気がする。
最近、孫と話をしていて気がついたことに、確かに知識は詰め込まれてはいる。けれど自分が納得した知識ではなく、誰かがこう言ったからとか、本に書いてあったからとかの他人の受け売りが多い。
「人間の体で誰でも持っている“め”が10個あります、何でしょうか?」
夕飯の支度に忙しい台所に来て7歳の孫がなぞなぞを出す。
「“め”? この見る目の他に???」
考え込んで答えないでいると、
「ヒントは手です」
「あ、わかった、爪(つめ)でしょう」
「ピンポン正解です」
包丁の手を休めてハタと考えた。“爪”が正解なら10個ではない、足にだって“爪”があるのだから、20個でなくてはならない。それに、やーさんなら一つや二つ足りないかも知れないし、魚の目ってのもあるじゃないの。
問題が可笑しいと言われて孫は口を尖らせた。
「だって、そう本に書いてあるんだもの!!」
「手だけにある“め”なら10個でいいけれど、体なら足もあるでしょう、そう思わない?」
7歳の孫を相手に大人気ないとも思ったが、孫に対してではなく、子供のなぞなぞだからと安易な問題を呈することに怒りを覚えた。また、それを可笑しいと気づかせるような基礎知識が培われていないことにも嘆きを禁じ得ない。
“頭は帽子を被るためのモノだけではない”これが私流の教育理念であるから、これからも孫と真摯に対峙して行こうと思っている。
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