2002年(平成14年)11月1日号

No.196

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
ある教師の独り言
GINZA点描
横浜便り
お耳を拝借
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

花ある風景(110)

唄ったり踊ったりして何が育つか

 並木 徹


 有吉佐和子原作・津上忠脚色・鈴木龍男・津上忠演出「出雲の阿国」を見た(10月15日・前進座)。新しいものを生み出す時の人間のすさまじいほどの情熱を阿国(妻倉和子)に感じた。1603年((慶長8年)の前後およそ30年間は.さまざまな女性芸能が展開を示した時代である。それまで男性が担ってきた舞台芸能をこの時代には女性芸能者も演じた。女猿樂、遊女能.女房狂言、女曲舞などである(千葉大学名誉教授・服部幸雄)。20世紀がそうであったように世紀の前後30年は特筆すべき現象が起きるらしい。
プロローグの念仏踊りは新鮮に見えた。
聖道 浄土の法門を/悟りとさとる人はみな/生死の妄念つきずして/輪廻の業とぞなりにける/南無阿弥陀仏 なむあみだ
踊の中央にいる僧形の者は塗笠をかぶり、顔が見えないが、その踊はひときわ輝いていた。
一幕。孫娘のお鶴(江林智施)とお松(黒河内雅子)を連れ戻しに来た森口のお婆(前園恵子)が阿国をののしる。「唄ったり踊ったりして何が育つか。何が実るか。誰の腹がくちくなるか.・・・唄や踊りで銭を取るのは傾いた女のすることじゃ。傾いた女たちは土を離れた根なし草よ。畑から引き抜かれた青菜はのう、街で売り歩いている間にも見る間にしおれていくものぞ」
現代人でこの問いに答えられるものが何人いるであろうか。
河原で庶民を楽しませたい阿国と貴人や富豪の引き立てを願う元能楽観世座の鼓師、三九郎(嵐圭史)の間に溝ができる。淀君の前で踊を披露したり秀吉の「人返しの令」(百姓は故郷へ帰れ)をまぬがれたりしたのは三九郎のはからいであった。三九郎は祖父から「打てよ。打ち込んでこそ鼓はなるものよ」と若くして亡くなった父も使った鼓を手渡された。鼓の皮は50年打ち鳴らしつづけてようやく一人前の音をたてるのだという。その50年がそろそろやってくる。権力に近づき自分の腕を試したいとはやる気持ちはわかる。その屈折した気持ちがよく表現されていた。
阿国と伝助(山崎辰三郎)の会話。この会話も阿国の芸熱心から生まれる。伝助の「いとより」の踊が女よりも一層女らしく見え、しかもおかしみがあった。女が男振りを踊るのも悪くないとひそかに思う。
「私らの唄や踊りに、なんで人は銭を払うのであろう」
「心楽しむゆえであろう。美しいもの、面白いもの、おかしきものは、よいものじゃ」
「それで銭を払うのか。それなれば、そのあとには何が残るかえ」
「楽しんだ心が残る」
「心が残ろうか」
「残るとも。残らでか。銭では買えぬほどのものが残ることもあるわ」
「銭では買えぬほどのものがかえ」
第二幕。「阿国歌舞伎」の誕生である。「伝助はいよいよ声がようなった」「阿国もいよいよ踊り上手よ」二人ともいくら唄っても踊っても、およそあきるということをしらなかった(原作より)。これから芸を磨かねばならないお菊(今村文美〉は三九郎と江戸へ去る。阿国は胸を病んだ伝助とお松を連れて出雲へかえる。たたらの長、田部荘兵衛(山崎竜之介)の招きで、村人の前で踊る。
花篭に月をいれて 漏らさじこれを/曇らさじと持つが大事な

「褒美をとらせる」という荘兵衛に、斐伊川の大洪水を防ぐための砂止め工事を願い出る。阿国は上流で働く鉄穴師(かなじ)を訪ねに行く途中、雪の中で死ぬ。「おぬしはいつまで踊るのだ」と伝助に聞かれたことがある。「死ぬるその日まで」と答えたように最後まで踊った。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp