花ある風景(108)
並木 徹
「銀座一丁目新聞」が縁で航空士官学校で59期の第一生徒隊第二中隊長をしていた江口洋一少佐の息子さん、江口宣彦さん(ジャパン石油開発・監査役)と知り合いになった。時折、陸士59期生の事を書くので、さる日、私を訪ねてこられた。59期生が航空士官学校に入校当時(昭和19年4月)写したと思われる写真を持参された。4枚の写真には一人一人に名前が記入してある。江口中隊長が生徒の名前を覚えるため書こんだものであった。
第一区隊には予科で同区隊であった北沢広君、戦後知り合った東矢孝文君、第ニ区隊には上野四郎君(予科・同区隊)、後藤久記君、第三区隊には鈴木七郎君(予科・同区隊)、中川一君、第四区隊には梶山静六君、渡邊瑞正君など見覚えの顔があった。
59期生2869名のうち半分の1600名が航空にいった。軍の主力は歩兵ではなく航空であったのだ。昭和19年3月17日地上兵科より6ヶ月早く卒業、3月29日修武台に進んだ。第一生徒隊は8個中隊あってそれぞれ4個区隊にわかれていた。操縦、航空通信、整備と分科が決定(昭和19年12月)、20年3月に第二生徒隊と編成がえされた。
第二中隊は航空士官学校創立以来の古い中隊で、53期の尾崎中和中佐は中南支の航空撃滅戦で19機を撃墜、昭和18年12月遂川飛行場強襲に際し僚機の危急を救うためP−402体当たりして戦死されている。また同期の横崎二郎中佐は17年9月、北千島の防空戦闘でB24に体当たりして勇名をはせた。その後続々と特攻隊の指揮官を出した。そのような先輩を持つ中隊であった。
江口中隊長は57期も担当。47期生で、砲兵から航空に転科された。文章の上手な方で陸士本科時代(昭和8年4月から10年6月まで)に書かれた「待望」の一文をいただいた。さわりを紹介すると「歴史ヲ繙キ静カニ次ノ時代ヲ考察スベシ。而シテ非常ノ時ハ非常ノ人ヲ要求シ、新シキ時代ハ新シキ人ヲ待ツ。無数ノ大事業ハ鶴首シテ人ノ来ルノヲ待テリ。玖島城址春ウララカナル所、維新ノ志士渡邊昇ヲ送リテ既ニ幾年月、滔々タル世潮ヲ外ニシテ静寂ノ眼ヲ閉ジタル郷土ハ次ノ時代果タシテ誰ヲ送ラントスラン。国家ハ実ニ英雄ヲ待テルナリ」現在でも立派に通用する文章である。
江口中隊長は昭和19年5月4日早朝、首相、東条英機大将の電撃視察の際、たまたま風邪で自宅で伏せっていたというので、6月に航空本部に転出された。この時は江口さんだけでなく、生徒隊長以下殆どの中区隊長が転出し、地上兵科の出身の中区隊長が乗り込んできた。このため、航空の59期生は歩兵と同じような熾烈な猛訓練を受けるはめとなった。
渡邊君の呼びかけで、第二中隊の有志が集り、江口宣彦さんを囲んで在りし日の江口中隊長(昭和25年1月18日、死去)を偲ぶ事になっている。11月29日午後4時から千代田区九段南4−3−7 偕行社談話室で開く。
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