俳句誌「自鳴鐘」9月号に編集長の寺井谷子さんが沖縄戦で戦死した特攻隊員、林市造海軍少尉(京大経済部学生)の俳句を紹介している。出撃の前に母親に出した数通の手紙の中にあった一句である。
蛙なく田のあぜ道や夜静か
「静かな叙述の中に、遺してゆくこの風土と人への切ないほどの思いを読みとることができるであろう」と寺井さんは評する。
鹿児島の鹿屋基地から特攻隊員として沖縄沖に飛び立ったのは、1945年4月12日、23歳の時である。日本戦没学生記念会編「きけわだつみのこえ」(岩波文庫)には林さんが母親に宛てた手紙が掲載されている。
「きけわだつみのこえ」には俳句や歌がおさめられている。敗戦の年7月25日人間魚雷「回天」の搭乗員として訓練中戦死した和田稔さん(東大法学部学生)は6月12日の日記に「月も日も流しやりけり春の潮」の句を残す。この人も23歳である。大きな句である。時代の流れは若者の青春をも無慙にも飲み込んでしまうと私は解釈する。
私の23歳の時は地方紙の記者から毎日新聞の社会部記者へ転進、警察廻りで、食うのに精一杯であった。軍人の道を志しながら敗戦で挫折、生活のために選んだ職業であった。それでも「やせ我慢」と「もののふの誇り」を胸に秘めて行動したつもりである。
木村久夫さん(京大経済学部学生)は昭和21年5月23日シンガポール、チャンギー刑務所で戦犯として刑死する。陸軍上等兵で28歳であった。
「みなみの露と消えゆく命もて朝かゆすする心かなしも」の歌がある。さらに処刑前夜の作に「おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかん」がある。悟達の境地に達せられたのであろう。俳句も歌もまさに魂のほどばしりである。「きけわだつみのこえ」の木村久夫さんの章は何度読んでも涙がでてくる。
戦後、各国の裁判で死刑を宣告された戦犯は971名にのぼる。その人たちの願いはみな同じである。「我々の無名の死を土台としてその上に立派な、国際的にも認められる日本を築いてくれ」と、いまわの際に書いて処刑されたこれらの人たちの痛切な願いに今の私達はこたえているのだろうか・・・「孤島の土となるとも」BC級戦犯裁判の著者、岩川隆さんは問う。
(柳 路夫) |