2002年(平成14年)9月10日号

No.191

銀座一丁目新聞

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追悼録(106)

 澤地久枝さんの著書「愛しい旅がたみ」(NHK出版)をホームページ「銀座一丁目書店」の「店主書評」の欄で紹介した。書評といっても澤地さんが旅先で買ったもの、プレゼントされたものを列記して、澤地さんのコメントを加えたにすぎない。
 澤地さんが1989年4月に訪れたチリの章はこう書いた。「チリ産出の多色石で彫ったトリ3羽、ビクトル・ハラの歌の録音テープ20本(サンティアゴ)流血なしに社会主義のアジェンデ政権が誕生した国である。そのあとピノチェット将軍による軍事クーデーターにより政権が奪取され、同時にアジェンデ派と目された市民多数が虐殺された事。その歴史を、この国のノーベル文学賞作家パプロ・ネルーダを入口に、虐殺された一人、フォーク歌手のビクトル・ハラの歌声を通して知った」
 解説を加えると、チリに社会主義政権が誕生したのは1969年12月17日である。1970年9月4日に社会党の医者、サルバドール・アジェンデが大統領となった。ところが、アジェンデ政権の誕生をこころよく思わないアメリカが陰に陽に干渉した。1973年9月11日、警察軍も加わリ、戦車、戦闘機も動員された軍事クーデーターで、モネダ宮にいたアジェンデ大統領が自殺を余儀なくされた(65歳)。この日、チリの「新しい歌」運動の旗手ビクトル・ハラも逮捕、国立競技場に連行され、銃殺された。澤地さんの本には「ギターを弾いた指を逆に向けて折られ、身元不明者の死体置場でみつけだされた若いビクトル・ハラ。テープは彼の『人生よありがとう』の歌声もおさめられていた」とある。ビクトル・ハラはこのとき32歳であった。一説には銃の台尻でその手をつぶされたともいう。
 偶然というのは恐ろしいもので、この日の毎日新聞の夕刊コラム「中古盤探偵がゆく」(9月5日)にアジェンデのことがのっていた。書き出しは「9月11日。悲劇は1973年にも起こった」である。この指摘は鋭い。アジェンデが自らの銃で自殺する直前おこなったラジオ演説のさわりが紹介されている。マガジャネス放送を通じて即興で演説をしたもの。この最後の演説を録音したレコードには「ベンセレモス」(我々は勝利する)という曲が日本語歌詞で歌われている。調べると、作詞・作曲はセルヒオ・オルテガ、日本語訳は田中道子・麦笛の会である。人民連合のテーマ曲であった。

 祖国の大地深く叫びが沸き起こる/夜明けが告げられてチリ人民は歌う
 勇敢な戦士をわれはおもいおこし/祖国を裏切るより我らは死をえらぶ
 ベセレモス ベンセレモス/鎖をたち切ろう/ベセレモス ベンセレモス
 苦しみをのりこえよう/ベセレモス ベンセレモス/鎖をたち切ろう
 ベセレモス ベンセレモス/苦しみをのりこえよう

 ギターが弾けない状態のビクトル・ハラは手拍子でこの人民連合の歌「ベンセレモス」を国立競技場に集められた5千人の群集をはげまし、死ぬまで歌いつづけた。
ピノチェット軍事独裁政権は1990年まで17年間続く。この間4万人が虐殺されたという。29年前に起きた「9・11」も忘れてはなるまい。澤地さんがチリで買ったトリ3羽とビクトル・ハラの録音テープには「ベンセレモス」への熱き思いを感じる。

(柳 路夫)

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